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バイブルエッセイ

内面の太陽

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイによる福音書13章44節)

陽気でいよう。陰気にならないようにしよう。神さまとの出会いは、常にセレブレーション(祝宴・祭典)だから。そしてまた、陽気であることは、祈りでもあるのだから。神さまの世界は、祝宴の舞台である。ゆえに、常に喜びに満ちていよう。そして、 その喜びを自分の祈りにしよう。イエスの譬え話は、人間が祝宴に招かれる話で満ちている。

 陽気であるための手短な経験は、笑いである。笑いは、最も神聖な経験の一つである。しかし、人々の笑いは浅い。事実、子どもの方がよく笑う。完全に笑う。しかし、子どもも成長するに従って笑いが浅くなり、笑いを抑えるようになってしまう。笑うべきか、笑うべきでないかの判断を下すことを躊躇するようになる。笑ってよい状況か否かを、考えるようになる。小さな子どもたちの笑いをもう一度思い出し、意識的にトータルに笑おう。そして、他人に対してだけではなく、自分に対しても笑おう。笑う機会を逃してはならない。笑いは、祈りだ。神への祈りなのだ。

 聖書によれば、私たちは、極めて局部的な人生、中途半端な人生を生きている。それは生ぬるい生き方であり、 熱くも冷たくもない。 その人生には、情熱がない。だから、今この時を、パラダイスにしよう。これを先延ばしにしないように。決して、延期してはならない。あなたが手にした唯一の瞬間なのだ。だから陽気でいよう。もっと笑おう。これは実に、具体的で現実的な体験である。そのためにも、イエスの譬え話は背後から私たちを励ましている。

 そのひとつが「天の国の発見の喜び」である。イエスの言う「天の国」とは、パラダイス、そして祝宴のことである。そしてそれが大きな喜びになるのは、自分の内面にある「生命の根源」すなわち、「永遠の命」を発見する時である。それは例えて言うならば、「内面の太陽」の発見である。
 私たちの外側に太陽があるように、その内側にも太陽がある。外の太陽は昇り、そして沈む。しかし、内側の太陽は、いつもそこにある。それは昇ることもなく、沈むこともない。 それは永遠である。内側の太陽と、その源泉を知らなければ、人は暗闇の中に生きることになる。しかし、その源泉を発見すれば、たちまちそれは人を深い深い至福の国、パラダイスに連れてゆく。そして今日、その旅は始まるのだ。

 宝のある「畑」とは、私たち一人一人である。神さまの働きがなされている、神の道具としての人間である。そこに、「宝」・「内面の太陽」がある。その宝は深刻に生きる人には、隠されている。神さまの働きの源泉を見つけた人は、幸いだ。イエスは言う。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧(まづ)しき者」(マタイ5・3、文語訳)。心の内面が空っぽの人こそ、パラダイスにいる。

 さらに「神の畑」とは、言い換えれば「神の手の中」・「神の加護の中」・「神の保障」を意味している。それゆえ、人間はこの世界について、何一つ心配する必要がなく、ただ、おゆだねするだけである。信頼するだけで充分なのである。

「神の」という言葉は、「神のもの」を強調している。イエスは「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17・21、口語訳)と言う。私たちは「神のもの」であるがゆえに、私たちの中に宝物があるのだ。「内面の太陽」が、燦々と輝いている。

日本福音ルーテル西条教会牧師 鐘ヶ江昭洋

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