るうてる2011年9月号
説教「雑草のしぶとさ」
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
マタイによる福音書13章31~32節
クロガラシは、イスラエルではかなりの高さにまで成長するアブラナ科の一年草で二メートルくらいはある」廣部千恵子著『新聖書植物図鑑』からの引用です。聖書に出てくる「からし種」が、どんな植物の種かということには、議論もあるようですが、それが、一年草であり、栽培種というよりも、むしろ雑草に近いものであったことは確かのようです。
プリニウスの『自然誌』によれば、「火のような辛さのあるからし菜はとても強い野菜で、水や肥料をやらなくても勝手に育って勝手に種をまき散らしてはびこっていく。そのため、農民はからし菜が自分の畑に生えてくるのを恐れていた」のだそうです。わざわざ植えたり育てたりしなくても、野原に行けば、いくらでも摘んでくることのできるような草、堂々とした大木というよりは、高々二メートルの大ぶりの雑草、そのようなものとしてカラシの木は存在します。
聖書の中には、もっと天の国にふさわしい木がありそうです。たとえば、ダニエル書四章七節以下には、「大地の真ん中に、一本の木が生えていた。大きな木であった」と書かれており、この木は、「その木陰に野の獣は宿り/その枝に空の鳥は巣を作り/生き物はみな、この木によって食べ物を得た」とされています。また、エゼキエル書三一章三節以下では、エジプトを喩えて、「糸杉、レバノンの杉だ」と語られていますが、この木は、「その丈は野のすべての木より高くなり・・・中略・・・大枝には空のすべての鳥が巣を作り/若枝の下では野のすべての獣が子を産み/多くの国民が皆、その木陰に住んだ」と言わる程、巨大なものです。
それにもかかわらず、イエス様は、天の国を、一年で枯れてしまう、高々二メートルほどの雑草に喩えられました。この喩え方の中に、雑草のしぶとさという隠れたテーマが浮かび上がってくるような気がします。カラシ種は、すぐ枯れてしまう植物ですが、空の鳥に媒介され、その小さな種を広い範囲に撒き散らし続けます。そして、たとえ、その年の草がすべて枯れ果てたとしても、翌年も、また次の年も、そこいら中に、新しい芽をふき、根を張り、実を結び続けるのです。それは、実にしぶとく、世の移り変わりにも耐えて、広がり続けていく、息の長い神の支配、そうも喩えは語っているのではないでしょうか。
ひるがえって、「人口の一%にも満たない」と常々、嘆きをともなって語られる日本伝道の現状について目を向けてみましょう。そもそも、「にも満たない」という後ろ向きのマイナスイメージが問題です。雑草の種は、たとえ枯れ果てたとしても、翌年、また次の年と、しぶとくはえかわって生き続けていきます。人口の一%、百人に一人もあれば十分とも言えるのです。雑草の強さとは、生きる強さです。栽培種の野菜であれば、たとえば、曲がったきゅうりは出荷できないというように、存在それ自体よりも、その外見や内容に左右されてその存在意義が問われるのですが、雑草にはそのような区別はありません。たとえ捻じ曲がって生えていても、生きていさえすればそれは雑草としての存在を主張するのです。
大部分の種は、「良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(マタイ福音書一三章八節)と書かれています。しかし、その歩みは、決して一筋縄でいかないものだろうと思います。時には捻じ曲がり、時には見失い、よれよれに曲がって、それでも生きていく、そういう信仰だってあって良いはずです。
日本のような多宗教社会において、キリスト教というものの純粋さを追求する必要のあったことはわかります。ただあまりにも純血を求め、崇高な精神性にばかり依拠してきたところに、日本キリスト教の弱さも、また垣間見えるのです。主イエスは、天の国をカラシダネに喩えられました。その雑草的強さをも含めて。この事も覚えながら歩んで行きたいと思うのです。
小岩教会牧師 松田繁雄
ルターによせて(5) 神学論争家ルター
日本の国会論議のみならず新聞の論説の中でもしばしば登場する用語に「神学論争」という言葉がある。その意味用法としては、「不毛な、非現実的な、結論の見えない議論」と言った意味で使われる。だから、ほとんどの場合、「神学論争はやめよう」と言った具合に否定的に語られる。日本の言論の府である国会における論議の決め科白の一つがこれらしい。余りにも世界の歴史を知らない言辞であると言わざるを得ない。
ルターの宗教改革は世界史的な出来事だが、その発端は、贖宥状(免罪符)に関する神学論争であったことはあまねく知られている。有名な「九十五箇条の提題」を始め、ルターはその生涯で六十以上の神学論争文を残している。体系的著作を持たないルターの思想の真骨頂はそれらの論争書にこそあらわされている。更には、ルターから始まったプロテスタンティズムの倫理が現代のグローバルな世界を揺さぶり続ける資本主義を形成する萌芽となったというのがM・ウェーバー以来の現代社会学の通説なのだ。
私たちも、人間と歴史、経済、社会を見据えて、ルターのように、大いに「神学論争」を語り出すべきなのではないか
牧師の声 私の愛唱聖句
甲府教会・諏訪教会 市原悠史
「あなたがたは世の光である。」
マタイによる福音書5章14節
私は高校生のとき、春のティーンズキャンプでこの御言葉に出会い、牧師を志すようになりました。「その輝きで、世界を照らし、父なる神様を証しなさい。」そのようなメッセージを受け止め、それを信じて、地元の大学の神学部へ、そして三鷹の神学校へと進みました。
神学校在学中、7ヶ月間住み込みで研修するインターンというものがあります。多くの神学生はその研修で大きな壁にぶつかるのですが、私もその一人でした。誰もが信仰生活の中で一度は挫折を経験すると思うのですが、私にとってはこの時がまさにそれでした。研修をしていながら、しかも牧師になるための研修をしていながら、神様がわからなくなったのです。私は自分を責めました。それまで、自分の召命感だけにすがりついて、勢いだけで前に進んできたことを。自分と向き合わず、神様の肯定のメッセージだけを安易に受け取っていたことを。教会という現場で直面する現実の中で、私は自分の輝きが消えていくような、まさにメッキが剥がれていくような思いになりました。そして、「私はもう世の光ではない。そのような私に、イエス様に従う資格はない。神様を証することなんてできない」そう思いました。「この研修が終わったら、神学校から離れよう。」そう思い、道を歩きながら、私は神様に謝りました。「ごめんなさい。私にはできませんでした」と。その瞬間、私はまるで隣で一緒に歩いている人に話しかけるように神様に話しかけていることに気が付いたのです。神様は遠く離れていたと思っていたのに、実はすぐ隣でずっと一緒にいてくださったことに気が付いたのです。初めて神様に出会ったとき以上の衝撃でした。そこで私は自分の罪深さを知り、そのような私をそれでも赦し、神様の光で輝かせてくださる、そんな神様の恵み深さを知ったのです。
「それでも、あなたがたは世の光である」今も私を動かし、メッセージの中心にあるのは、この御言葉です。
信徒の声「摂理でしょう」
IECLB日系ルーテル・サンパウロ教会 須田清子
教会との初めての出会いは、昭和19年春、前橋共愛女学校に入学した時でした。聖書、賛美歌を手にし、祈り、神様を賛美することを学びました。戦前、戦中、戦後の5年間を学びました。
前橋市は有名な上毛三山に囲まれた小さな町でした。放課後校舎の屋上に上って四季を彩る山肌の美しい景色を眺めるのが好きでした。山間から夕日を浴びて踊る波を川一杯にのせて校舎の横まで流れ来る利根川もまた、その深遠な神秘に魅了されてしまいました。
焼け野原となりバラック建ての家並みしかなかったこの町に神様の創造のみ業を見ることができたのです。そして宇宙の創造主は聖書に教える神様だと確信することが出来たのです。その神様に全ての罪が赦されるほど愛されていること(ヨハネ3・16)を信じて、最終学年のクリスマスに受洗しました。
1953年9月4日、アマゾン川河口、赤道直下にあるアマパ州マカパ市に移民として上陸、野菜栽培のために5年間契約で入植しました。4ヶ月位経ったある日、真実が封じられる会合に幻滅と悲哀を感じ、孤独の悲しさに襲われて退会。広大な耕地の大木を伐採し山焼きの後の焼けぼっくいを蹴飛ばしながら家路に向いました。と、その時、雷光の如く、突如、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・6)とのイエス様のみ声が聞こえたのです。私は一人ぼっちになっても孤独ではない。地球の果てのようなこの荒野にもイエス様が共にいてくださり真実の道を歩ませてくださっている、と実に慰められたのです。
1965年、初代宣教師藤井浩先生によって日系ルーテル・サンパウロ教会が設立されました。私は1970年から教会の近くの癌病院に勤務することになりやっと母教会に戻れたような喜びを感じました。歴代宣教師8代目として徳弘浩隆先生の時代となっています。今では自給教会・自立を目指して元気と勇気を神様から頂いています。「勇気を出せと主は言われる。… 働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。… この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与えると万軍の主は言われる。」(ハガイ2・4~9)神様のお約束です。
前の教会より大きくて、日系人の集中している良い場所に移転でき、希望と勇気の与えられたことを感謝しています。2015年には宣教50周年を迎えます。次世代に継承する教会形成が出来るようにと日ごと祈っています。
フィンランド教育事情
道標の教師
「戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。」
箴言6章23節
学校はまた賑やかになりました。夏休みから戻ってきた生徒や先生たちは秋学期の日々への足慣らしをしています。8月の中旬に新学年を迎えたフィンランドの学校では、教師は目標や学習の中心的内容を含む国の学習計画に従わなければなりません。しかし、それぞれの学校や教師にも多くのことを決める自由があります。例えば、教科書の選択がそうです。
フィンランドでは、教師は高い教育を受けており、自分の分野の専門家として信頼され、尊重されています。義務教育と高校の教師になりたいならば、修士の資格をとらなければならないということです。大学の修士号が小学校教員養成課程にも課せられたのは1979年です。 教師の仕事は先進的な国では評価を失う傾向にあるのに対して、フィンランドでは今年教師になりたい学生の数は昨年より増えました。教師の仕事はまだ人気があるので、教育学部は高い能力がある学生を選ぶことができます。しかし、重さを増した責任や期待の為に疲労を覚える教師もいます。新たな情報社会のために在任中の研修も重要で、職業的な知識や技能を常に磨かなければなりません。
市民の道標なので、教師 の責任は小さくありません。教育者が何をどのように教えるかというのは新世代の将来に大きな影響を与えます。ですから、家庭との協力や親たちの援助は非常に大切です。互いに尊重し、力を合わせることを覚えて、次の箴言22章6節に心を留めましょう。「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう」。
Paivi Poukka, ポウッカ・パイヴィ
スオミ・キリスト教会
日本福音ルーテル教会の社会福祉施設の紹介 その17
ルーテル作業センター ムゲン
施設長 佐野卓志
ムゲンは現在就労継続支援B型という事業所で、登録メンバーは20数名、職員は5名です。ぼくは統合失調症という精神病の当事者です。2回計5年の入院歴があります。詳しくは『こころの病を生きる』という中央法規出版の本に書きました。
ムゲンは23年前に、ぼくやぼくの奥さんの波津子さんや数名の当事者が一緒になって、障害者の集まれる居場所を作ろうとして、古本屋をオープンしました。まだデイケアも十分になかった頃のことです。資金集めはバザーなどを通じて、150万をため、店内改装をしました。それまで身体障害者の自立運動に関わっていましたから、寝てできるトイレも作りました。でも集まってきたのは、自分で来られる精神障害者ばかりでした。「家出娘」も「左翼活動家」もやってきました。本当に行く場所の無い人たちでした。行政にも援助金交渉でいきましたが「商売でやっているんだろう」とけんもほろろでした。 ぼくもコンピュータ講師のバイトをして 、 ムゲンに入れている状態でした。
家賃を溜め込んで、払うアテも無かったので、そこを2年で出ることになりました。親が医者で、今は使っていない調剤薬局の建物があり、そこにタバコ屋として移りました。当面家賃の心配をしなくて済むようになりました。
いつまでも援助金無しでは将来も無いので、移転してから6年後に援助金交渉を再開しました。うちは作業所として、当事者会立なので、バックに家族会もありません。行政はバックに信用のある団体を求めてきました。そこで、当時関わってくれていたルーテル松山教会の中に、「エファタ」という支援グループを立ち上げてもらうことになり、信用のある団体が出来ました。そこから行政交渉もトントン拍子に進んで、援助金が決まりました。施設名も「障害者自立の店ムゲン」から「ルーテル作業センター ムゲン」に変えました。その後も、全国のルーテル教会も関わってくれています。ムゲンのメンバーの中にも数人の信徒さんがいます。
愛媛県松山市木屋町1丁目9‐4
(次号に続く)
私の本棚から
森博嗣著『喜嶋先生の静かな世界』 講談社、2010年
その一冊を読むことで得られた経験が、たぶん僕の人生を決めただろう。意味のわからないものに直面したとき、それを意味のわかるものに変えていくプロセス、それはとても楽しかった。」これは、主人公小学四年生の時の図書館体験、読書体験です。
勉強すること、追究すること、他人(先生、同級生、先輩、異性)への関心と無関心は人それぞれ違うこと、好きなことだけやっていては世の中生きていけないこと、道理にかなわないことに遭遇すること、不条理なことが起こること、だからこそ他人の思いに振り回されない生き方をしてもいいということが、大学の理系研究室を舞台に淡々と書かれています。最後の数頁で妙なざらつきを感じたものの、これも生きる姿。
このようにご託を並べると面白くない本のように思われるかも知れませんが、タイトルにあるように”静かに”書かれていることを受けとめ、興味深く読み進めることができた渋みを感じる人間味のある小説でした。
この本は、休日に、勤務する図書館で購入する学生の読み物用新刊本を書店で定期チェック中(その場では購入しません)に見つけ、わたしく用に買って帰った一冊です。「自伝的小説」と本の帯に記されています。著者は青年世代に好んで読まれているミステリーを多く著している某大学の先生です。どの著作を見ても著者欄には”某大学”としか書いてありませんので、あえて調べず謎のまま…です。
「私の本棚から」を書くにあたって、少しく自己紹介をします。テレビのない家庭で育ち、幼稚園に入る前から一人で近くの市立図書館へ、そして、当時としては珍しくきちんとした図書室がある小学校(宮崎県)へ通いました。小学校低学年の時には読書好き、本好きが高じて図書館好きになり、専門の大学へ進み図書館司書になりました。司書歴約24年です。公共図書館ではなく大学図書館を選んだのは 苔の研究者であった父の影響です。職場の図書館で本を手にする場合は、ほとんどが目次読み、要点読みですが、私的に読む本は風景や情景が映像として浮かび、登場人物の表情や息が感じられる小説が多く、急いだ読み方はしません。読んでいる時は意識していませんが、クリスチャンであることが読み方に影響していると、読後感を楽しむ時にいつも思います。
熊本教会員、九州ルーテル学院大学図書館司書 水谷江美子
救援活動レポート
台湾ルーテル教会のボランティア活動
8月1日訪日した台湾ルーテル教会の奉仕団は鳥日聖光堂(台中市)の彭台鳳さんをリーダーに同教会の5名、台中市の台中基督堂の1名、台北市の台北真理堂の2名、士林真理堂の4名の12名でした。同日、市ヶ谷センターで開催されていた震災対策本部会合で日本の4ルーテル教会の代表から歓迎と激励を受け、記念品を手渡した後 、 仙台に向いました。
8月2日は被害の大きかった東松島市の野蒜小学校、宮戸島地区、石巻市ボラセン、被災した市街地、女川町、雄勝地区、多くの児童・教師が受難した大川小学校を立野牧師の案内・説明で見て巡り被災の深刻さ、残酷な姿を見ることができました。夕べの本地生活センターでの「わかちあい」では「放射能が怖いと感じて来たが地震・津波の被災は想像以上だった。伝道活動より支援活動をしたい」と語っていました。
3~5日は大川小学校に近い河北地区・尾の崎の民家のガレキの選別・片付け、北上町保健医療センター「ひまわり」周辺の津波で被災した農地の草取り、民家の下水のヘドロ掻きに従事しました。北上川の堤防を越えた津波は一帯の農地・民家になだれ込み、所によっては地盤沈下し、未だ、遺体の捜索活動が行われている所です。慣れない日本の蒸し暑い気候と合宿で睡眠が充分でない中で、求められた作業を一所懸命に汗を出しながら取り組んでくれました。 被災された方々からは「遠い台湾、オーストリアからも助けに来てくれた。畑が再生でき、秋野菜の種・苗が蒔ける。自分たちだけではどうしようもなかった」と喜んでくれました。顔のみえる支援は大きな励ましになっていると確信できました。
一行は6日仙台の七夕祭りの雰囲気を味わい、8日に無事、帰国しました。
同行者 木村 猛(保谷教会)
フィンランド短期研修報告 出会いの旅
飯田教会牧師 大宮陸孝
6月5日(日)から7月4日(月)までの1ヶ月間、フインランドのSLEYの教会を訪問して廻る旅をして参りました。フィンランドではちょうど夏休みに入った時期で、学生たちは一斉にキャンプ場などの施設で堅信キャンプが行われている真っ最中でした。最初の一週間は、カルックの聖書学校の堅信キャンプの保護者を対象とした聖書講座に参加しながら、この間に、夜には各地の教会や集会で要請された説教やスピーチの準備をして過ごしました。
集会や礼拝での説教は、6月9日(木)午後8時から、カルックでの堅信キャンプ参加の子どもと保護者への挨拶とインタビューがありました。洗礼を受けた動機は何かを聞かれました。12日(日)礼拝後に短い集会があり、その集会でスピーチ テーマは「日本でルーテル教会の牧師として働くこと」でありましたが、質問は震災と原発事故のことに集中しました。同日午後6時にはペルホの教会の集会室で夕べの集会があり、「日本の教会で信仰者として生きること」というテーマでスピーチ 14日(火)ケミンマー教会の集会でスピーチ 15日(水)午後7時から、テルボラの古い木造の教会の家庭集会にて「教会に新しい会員を得るためにどうするべきか」というテーマでスピーチ 18日(土)午後1時から、ロイマーの教会で「飯田ルーテル幼稚園のこと」をテーマにスピーチ 19日(日)トゥルク教会で主日礼拝の説教を致しました。21日(火)午後6時から、ヘルシンキSLEY本部のルターホールにて、学生たちの集まりでスピーチ 24日(金)午後6時からフィッティネンのサスタマラ教会でサマーフェスティバルに参加、集会でスピーチ 26日(日)ヘルシンキSLEYの教会での主日礼拝の説教 題は「永遠の宝物」 28日(火)午後6時から、トウヒランタSLAYのキャンプ場での集会でスピーチ 案内・通訳はヘイッキネン宣教師 7月1日(金)午後5時から、ラーへにてSLEYの全国大会オープニングセレモニーでの挨拶とインタビュー 2日(土)午後5時から、フィンランド福音ルーテル協会の代表とのミーティング及びラーへ地方の新聞記者との会見、翌日の地方紙に私へのインタビューの記事が掲載 3日(日)午前10時半から、大会参加者の礼拝、聖餐式配餐と海外への宣教師派遣での按手祝福式に参加 以上が研修の主な日程でした。 主として自動車で移動、バスと電車での移動もありました。フインランド南北一往復半 西部へ、東部へそれぞれ一往復の全旅程の走行距離は2,500キロ以上になるかなりハードな研修旅行でした。日本で宣教師として働かれたリッポネン先生、ペランデル先生、パーボ・ヘイッキネン先生、ライティネン先生、ピルッコ・カリコスキ夫人、カルリオ先生、ソベリ先生、東京のスオミ教会の職員として働かれたマリア・ヴィルクニエミさんたち懐かしい方々にもお会いして来ました。紙面がオーバーしてしまいました。機会があれば今度は研修の内容を紹介したいと思います。
土井 洋牧師を悼んで
愚直な友は、主のもとに逝った
引退教師 重富克彦
愚直という言葉は褒め言葉なのだろうか、けなし言葉なのだろうか。今の時代、一般にそれは、冷笑を伴うけなし言葉なのかもしれない。けれどわたしは、第一級の褒め言葉として、我が友土井君は、まことに愚直な人だったと言いたい。その愚直さの中に愛嬌もあった。そのどちらをも、彼と有縁の者たちは愛した。
牧師になるための教師試験をボイコットした九人の仲間の一人に土井君もいた。教会と対話を深めるための手段としてのボイコットだったので、対話を進めながら絶えず、それを撤回し、試験を受ける時期を計りながらの行為だった。夏も終わり、試験を受けて宣教の現場に出るという合意が教会との間にできたとき、彼は一人、いったん始めたことをそう簡単に撤回できないと、受験を拒否し、浪人に留った。わたしには、融通が利かな過ぎるとも思えたが、それが彼の真実だった。愚直だったのだ。
彼は神学生時代に出会ったブルトマンに、やはり愚直に生涯こだわり続けた。今の神学生は、その名さえ知らないかもしれない。
わたしが咽頭がんを患い、数ヶ月現場を離れて入院治療をしていたとき、彼は手紙をくれた。万年筆で書かれた、知る人ぞ知る味わい深い字の手紙だ。ところがその手紙には、一言も、見舞いの言葉は記されていなかった。ただ、聖書の原典読みの中での、新しい発見や、これからの研究課題。ブルトマンへのこだわりのことなどが書かれているだけだった。けれどわたしは、その行間に溢れる、言葉にならない彼の思いを受け止めた。
彼は召される直前まで、説教台に立ち続けたと聞く。やはり彼らしい最後だ。愚直な牧師。彼は真実を貫いた。
4月に見舞いに行ったとき、奇跡的にがんが半減していると聞いて、わたしも嬉しかった。あれはまぼろしだったのか。いや、それが、この病のしたたかさであることをも、わたしは知っている。
しかし、主の意志がなければその時は来ない。主は彼を召された。今彼は、愚直に真実を献げてきた主と、顔と顔とを会わせてお会いすることが許されている。うらやましくもある。