るうてる2009年10月号
キリストこそ中心
宗教改革の信仰を生きる(ローマ3:21-22)
徳善 義和
フランスのコルマールにグリューネバルトの「イーゼンハイム十字架画」、続いてドイツのワイマールとウィッテンベルクにルカス・クラナッハ晩年の別々の「十字架画」を見て心に刻んだ。2人の画家がそれぞれの絵の中で自らをどこに身を置いて描いているかに注目させられ、考えさせられた。2人とも、16世紀前半、ルターの同時代人である。グリューネバルトは遺品にルターの説教集を遺した。クラナッハは生涯ルターの説教の聞き手だった。
グリューネバルトの絵については、バルトも『ローマ書』の中で、バプテスマのヨハネの指に注目して再々にわたって言及しているが、今回私はそれ以上に、この絵の前に立ち尽くして、グリューネバルトが自らをその「指し示す指」に重ね合わせて描いていることを痛感した。それに対してクラナッハはどの絵でも、キリストの恵みを自らのためのものとして受け取るという点に終始している。さらにここに添えたウィッテンベルクの絵の「説教するルター」の部分が示すように、説教者ルターにキリストを指し示す指を見て、その源には開かれた聖書を明示した。旧新約聖書全巻がキリスト証言の書として、これこそが源となって、ルターの指が指し示すキリストに向けられているばかりでなく、説教するルター自身もキリストに注目している。さらに、描くクラナッハばかりでなく説教の聞き手全員が同じように中心のキリストに注目しているのである。ある意味でここに宗教改革の核心を「キリストへの注目」にあると見た、説教の1人の聞き手である画家の信仰告白がある。
宗教改革の信仰を今に生きようと心に定めれば、説教者においても説教の聞き手においても、この信仰告白に注目する必要があろう。説教者は旧新約聖書全体をキリスト証言として受け止め、これを中心とする「キリスト告白」に徹し、自らもそのキリストに注目するという姿勢である。聞き手はまた、その「キリスト告白」を聞きながら、説教者を見るのではなく、説教者が指し示す指に従って、聖書の証言するキリストにひたすら注目するということでもある。
宗教改革を記念するということは、信仰の先達たちからキリストへの注目のこうした姿勢を学び取って、今一人ひとりの心に「十字架に架けられた私のためのキリスト」の姿を思い描き、これに生きるということではなかろうか。
るうてる法人会連合第8回総会
事務局長 立野 泰博
8月25日~26日、熊本の九州学院にて「るうてる法人会連合第8回総会」が、100名を超える方々の参加で開かれました。この法人会連合は、ルーテル教会の宣教方策を具現化するために、宣教共同体の連帯と協力推進のために結成されました。
キリストの愛を実践する働きとして、福音を宣べ伝え(伝道)、教え(教育)、いやす(奉仕)を覚え、日本福音ルーテル教会、ルーテル学校法人会、ルーテル幼稚園保育園連合会、ルーテル教会社会福祉協議会が連合を結成しています。総会は毎年開かれ、今年のテーマは「キリストの愛を伝えて」でした。
今回の大きな恵みは、学校法人、幼稚園保育園連合のこれまでの働きをまとめた「キリストの愛を伝え共に成長する」が連合会として出版されたことです。先に出版された社会福祉の働きをまとめた「未来を愛する希望を生きる」と共に、私たちの大きな財産となりました。販売は事務局で行っています。
法人会連合総会は今後2年に1回の開催となり、総会のない時は研修会をおこなうことになりました。
風の道具箱
本日は晴天なり
飛行機出張の一番の楽しみは「富士山」を見ること。羽田離陸10分後に富士山が見えてきます。驚いたことに、天気が曇りであっても富士山は見えます。雨でも見えることが多いものです。なぜなら、富士山の頂上は雲の上にあるからです。「あたまを雲の上にだし」という歌の通りです。飛行機の上から見ると必ず富士山を眺めることができるのです。
「上から見ると」。この言葉にちょっと感じることがありました。上から見下ろすのではありません。上から見る視点も大切だなと思ったのです。
試練のような大きな出来事にであった時、人は見上げるという視点しかないかなと。出来事が大きければ大きいほど、自分では受けとめることができないと恐れてしまいます。右や左からでも、上からでも違う視点から見ると、全く違う出来事に見えるときがあります。神様の視点は完全。どこからでも見ることができるのです。
空から見れば、富士山の頂上はいつも「本日晴天なり」。神様の視点には曇りも死角もありません。
(柿のたね)
Information
■2010年版 教会手帳
10月20日発売
2009年11月から使える、「教会手帳」が10月20日に発売されます。詳しくは10月号の差し込みチラシをご確認ください。
■新型インフルエンザ 気をつけましょう■
新型インフルエンザが各地でおとろえを見せず猛威を振るっています。各教区、教会におかれましても、予防対策を講じておられることでしょう。
教会や関連施設という不特定多数の人々が集う場にあっては、危機管理の面で対応は重要です。
自ら感染しないように、互いに感染しあわないように、十分注意し、そして、万一の場合は落ち着いて対応しましょう。
ウエブサイトの「厚生労働省新型インフルエンザ対策関連情報」も参考にしてください。
(広報室)
牧師の声
私の愛唱聖句
小倉教会、直方教会 牧師 光延 博
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る
イザヤ書 40章31節
このみことばは、私が神学校に入学した際に恩師からいただいたみことばです。これから牧師になるための学びへの意気込み、そして、学業について行けるかという不安な感情が内にありました。しかし、主に望みをおいておこう、そうだ、大丈夫だ。そう思ったのが思い出されます。
しかし、神学の学びは私にとってはとても大変なものでした。さらに、自分自身を顧みると、欠けの多い私がこの道を進んで行くことは適切なのだろうかと思う試練は、たびたび襲ってくるのです。私はむいていない、いや、この貴い職務をやって本当にいいのだろうか、様々な葛藤が起こります。
ですが、折々に「主に望みをおく者は新しい力を得る」というみことばが思い起こされるのです。主はこのような欠けだらけの人間をも用いてくださる、私の個性も使っていってくださる、私という者は、神に受容されている人間である。またこれはみことばをとおして、まことに外側から、迫って来るものがあったのです。自分に望みをおいて、自分の力で宣教を行っていくのではない、私を義として、用いてくださる主がお働きになる。主に望みをおこう、主は真実な方ですから、主の御旨だけが実現する。主の宣教への参与。これはまことに幸いなことなのですね。
イエス・キリストの福音を語ることができる幸いを今感じています。それは、生き方の講義ではなく、教養を身につけるためでもなく、ただ救いの伝道であります。
恩師がみことばを送ってくれた。これは、まことに心励まされることでありました。
よく言われるように、他者から語りかけられるキリスト、その大切さであります。それは、自分の内側に存しているキリストは、ある牧師が言っているように、他者から語りかけられるキリストよりも弱いということでありましょう。ゆえに、礼拝や交わりの大切さを改めて感じるのです。
主に望みをおき、宣教に励んでいきたいと思います。
信徒の声
教会の宝石を捜して
東教区 東京教会 伊藤 和雄
東京教会では毎週礼拝前に、信徒が輪になり聖書を輪読する「聖書輪読会」が開かれています。この会を長きにわたって支えられている伊藤和雄兄のお声を聞かせていただきました。
機関紙「るうてる」に寄稿するように関野牧師より要請を受けたのですが、果たしていつ頃「輪読会」をスタートしたか、聖書に書き込んだメモと手帳の記録では10年前の1999年頃と思われます。
先輩で教会の役員として活躍されている伊藤百代さんがわたしにアドバイスしてくださり、毎日曜日の11時の礼拝に先立つ10時30分頃より礼拝堂の横の控え部屋で、有志により聖書を1節ずつ輪読する方式をとっております。
聖書にはどの頁をとっても人生の重要な教えが盛り込まれており、週の最初の日曜日、これに接することによって身も心も清められ、これに続く礼拝が一層充実したものになります。
私は戦争直後旧制高校在学中、フランスのプロテスタント作家アンドレ・ジイドを愛読しており、邦訳されている著作は全部書簡集に至る迄読みつくしましたが、輪読会でマタイ7章13節、ルカ13章24節に至り「狭き門」に再会、マタイ13章1~9節 マルコ4章1~9節 ルカ8章4~8節で「一粒の麦」にで出会い感慨を深くしました。
ルカ12章4~7節 マタイ10章29節では雀に言及があり、昔の日曜学校以来愛唱している讃美歌(1948年版)472番「かみさまは幹の小雀迄おやさしく何時も守りたまう 小さいものをもお恵みある かみさま私を愛したまう」が危うく口から出かかりました。
またヨハネ3章16~17節を読んでおりまして、5歳の私を日曜学校に連れて行ってくれた母がよく歌って聞かせてくれた467番「主われを愛す……」を思い出し胸の鼓動が高まる思いを経験しました。
自宅前の公園を散歩しますと雀のさえずりが聞こえて参り472番を、続いて467番を口ずさんでおります。人がいない時は声を出して歌っております。毎日曜、西武新宿から教会への往復時も口ずさんでおります。
日曜になりますと、輪読会で今日の聖書ではどの様な出会いがあるのか想像するだけで楽しみが倍加するしだいです。輪読会の終わりの時点で私が「ありがとうございました」と申しますのは、素晴らしい聖書との出会いができましたことと、この会に参加してくださった方々のご協力を感謝し、自然に口をついて出て来るものです。参加された諸兄姉も夫々聖書の中で感銘を受けられたフレーズが必ずあるはずです。
最後に忙しい役職を抱えておられながらもこの会の成立に配慮くださっている伊藤姉、泉姉に感謝する次第です。
高齢者伝道シリーズ(P2委員会)
み言葉は生きて働く
東京老人ホーム理事長 内海 望
東京老人ホームでは、毎週月曜日から金曜日まで礼拝を行っています。これはホームの創立理念の継承の中でも最も大切なものです。
礼拝は式文を用いて行われています。また聖書日課は老人ホームという場を考えて、詩編を多く用いる独自のものを作成しました。
私たちは、この礼拝を通して、2つのことを真剣に考えています。
第一に、この礼拝がホームで生活する230名を越える利用者全員に、安らぎと希望を与えることです。クリスチャン、あるいはキリスト教に興味を持つ人々が集まる教会とは違って、社会福祉法人としての老人ホームは公的な機関であるという性格上、利用者はさまざまな信仰、思想の持ち主です。ですから、求道者を求めるのでなく、すべての人々に、み言葉によって豊かな喜びが与えられることを願っています。み言葉は、そのような力を持っていることを信じています。
第二に、利用者の半数以上が85歳以上であることを考える時、毎回の礼拝が真剣勝負です。終末ケアという言葉が安易に用いられる最近の風潮です。しかし、ここでは、この日が一人ひとりにとって大切な1日であるということをひしひしと考えさせられる礼拝です。
東京老人ホームの礼拝が多くの方々に支えられていることは恵みです。10名以上の近隣の牧師が協力し、研修会を行いながら礼拝を深めて行く努力を続けています。更に、神学校の最上級生が研修を兼ねて参加しています。心から感謝します。このような礼拝を中心にして、私たちの願いである「キリストの香り」が満ち溢れるホーム形成を目指したいと思います。
いのち、はぐくむ 中井弘和
第7回 種をまくとき
何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
(コヘレトの言葉3章1~2節)
私は、大学在職最後の14年間は長野県飯島町の駒ケ岳山麓に住む農家の水田を拠点に研究を進めていました。5月中旬の田植えの時はいつも雪の残る美しい山並みが眼前にそびえていました。田を潤す水をはじめ、土地の人々の生活は豊かな山の恵みに支えられてきたのです。稲の種まきは、春が巡り来てその頂上付近に「灰まきばあさん」が現れたら始めたのだといいます。雪がとけ黒い山肌が、畑に灰をまくおばあさんの姿になったら、ということです。その時が種まきの適期で、最も多い収穫をもたらせたといいます。
日本では鶯やカッコウの初鳴き、桜やコブシの開花など多彩な自然の移り変わりを指標にして農作業を行うのが普通でした。農業は自然の営みとともにあったのです。そのような農業が様変わりしてきたのは高度経済成長が始まって以降50年ほどのことです。農業は限りなく工業化し自然から遊離していきました。現在、稲の種まきは、日本中ほぼ同じ春先にほとんどJAが加温装置を用いて行っています。農家の多くは自ら種をまかず、JAから苗を購入して田植えをするのが恒例になりました。
人類はもともと月や太陽の運行、自然の移り変わりを規範として暦や時計を考え出したことは周知のことです。時間という概念は、自然と人との共生関係の中から生れてきたといってよいでしょう。しかし、いつの頃からか時間が独り歩きを始めます。人間は、都市化、工業化した社会の只中で、自らが作ったはずの秒や分刻みの時間という網に絡めとられて、自然やいのちの「時」から遠く引き離されてしまったといえます。経済大国といわれながら、年間3万人以上もの自殺者を出し続ける日本の現状は端的にそのことを物語っています。
時は、本来自然やいのちの側のものであり、すべて神の賜物であることを聖書は示しています。私たち一人ひとりも、社会全体も、自然に寄り添いその声を聞きながら生きるありようを模索する時機です。経営や効率や競争といった幻想から抜け出し、互いに助け合い、いのちを大切にする人間であり社会でありたいものです。その道にこそ、私たちは人生のあらゆる時に生じるすべての出来事を、神の賜物として受け容れ、喜びをもって生きていく業を見つけ出せるのではないでしょうか。
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路帖百年。1909年~2009年
鷺宮のルター寮
私は、1953(昭和28)年からほぼ5年間、鷺宮のルター寮で過ごしました。春には桜の花が部屋の中にも舞い降りてくるような素晴らしい環境でした。戦後、間もないことで皆必死に生きる努力と生きる意味を求めていた時代でした。神学生の数も多く1学年平均10名近くで、約50人の神学生が学んでいました。個性豊かなメンバーで、詩人あり音楽家ありで目を開かれる思いでした。
入寮してすぐ上級生から与えられたのは、生の純粋さを求めて20歳で逗子海岸で入水自殺した旧制第一高校生原口統三の「二十歳のエチュード」でした。「その時彼は二十歳であった」という彼自身が墓碑銘に選んだ言葉は、50年を過ぎた現在でも心にこだましています。
神学生は、それぞれの神学的アプローチから「実存派」と「敬虔派」とに分かれ、それぞれ自己の正当性を難解な言葉で主張していました。謄写版の神学雑誌が回覧され、教会音楽研究会でバッハを聴き、更に野球に励み、最後は勉強する暇もなくなりました。 (内海 望)
関門の丘から 松隈 勁
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
(ローマの信徒への手紙12章1節)
10月。暑かった夏の熱気を冷ますかのように海峡に秋風が吹きわたる頃、各界で活躍しておられる方々を講師としてお招きし修養会がもたれる。この修養会を境に動から静への落ち着いた秋の時を迎える。
数年前、ペシャワール会を主宰しておられる中村哲先生をお招きした。忙しいスケジュールにもかかわらず応じてくださったことが嬉しかった。壇上で先生がアフガニスタンで水路を開削することの意義を説いて下さった。灌漑はもちろんのこと、きれいな水さえあれば失われずに済む命のことなどを。それから数カ月後、ペシャワール会で働いておられた伊藤青年の悲報に接した。以前には遠く離れた世界で起きている事柄と思っていたことが、にわかに現実味を帯びて、生徒たちの心に深く重く響いてきた。「平和を実現する人々は、幸いである」という『マタイによる福音書』の聖句は、私たちに平和は決して武力では実現しないということを教えている。
学院での毎日の生活は職員朝拝に始まる。聖書が輪読され、旧約聖書に始まり新約聖書までをほぼ3年で通読する。朝のホームルームが終わるとすぐに、中学生と高校生はそれぞれ別のチャペルへと入場する。クリスチャン教師が礼拝の司会をする。入場から退場までのほぼ20分の礼拝ではあるが、毎日の積み重ねは大きい。週の1日は近隣の教会の牧師が応援してくださる。金曜日は生徒によるクラス礼拝である。生徒自らが聖書の箇所を選び、短い奨めを任されている。いつも感心するのは新・旧訳聖書の中から自分が話したい奨めにあった箇所を新鮮な感覚で見出してくることである。私自身は聖書を何度通読しても気がつかなかったり、忘れてしまっていた箇所から選んできて、よくぞ捜せたな、と驚く。原稿用紙2枚程度にまとめた奨めの言葉も自分の体験を踏まえ、伝えたい内容を簡潔にまとめている。言葉がよく耕されていると感心する。
現在、それぞれの学校の裁量に委ねられた学校設定教科・科目が認められており、本校では国語表現という科目が設定されている。生徒たちの言葉が豊かに耕されているのは、その科目の効果も大きいのだろう。
第15回東教区 宣教フォーラム
第15回東教区宣教フォーラムは7月5日(土)、総武地区の千葉教会を会場に行われました。梅雨時にもかかわらず天候に恵まれ、首都圏26教会、神学校などから、総勢131名の方々が集まり、千葉教会の礼拝堂とロビーをフルに使っての盛会となりました。支えてくださった方々に感謝いたします。今回は「祝福の継承」をテーマに、内海望牧師を招き、「私たちはあるがままで既に受け入れられ、恵みを受けている」とした主題講演と、例年の分科会に替えて、テーマを深めるパネルディスカッションを企画・構成しました。パネラーに内海望牧師、太田一彦牧師(都南教会)、綱春子姉(聖パウロ教会)、鳥飼一成兄(津田沼教会)を迎え、会場からは質問や経験談、感想など多くの反響を得ました。改めて、信仰の継承・家庭内伝道の大切さ、その恵みの深さを共有する有意義な一時を過ごすことができました。
(木村 猛)
宗教改革記念礼拝のご案内
以下に掲載されている礼拝以外にも各教会で記念礼拝が行われる予定です。詳しくは最寄の教会、あるいは地区へお問合せください。
■北海道特別教区
・道央地区 NRKの札幌地区と合同礼拝
日時:10月31日(土)14時~/会場:札幌北礼拝堂
■東教区
日時:10月31日(土)14時~/会場:武蔵野教会
説教者:徳善義和 牧師
■東海教区
・尾張岐阜地区
日時:10月31日(土) 14時~16時/会場:高蔵寺教会
説教者:土井洋 牧師
司式配餐:佐々木赫子牧師、神﨑伸牧師、フレデリクソン牧師
■西教区
・京都地区で合同礼拝が行われます。詳しくは地区内の教会にお問合せください。
■九州教区
・熊本地区
日時:10月25日(日) 10時30分~/会場:九州学院
説教者:清重尚弘 牧師
夏の次世代育成プログラム その2
東海教区 堅信キャンプ
8月18日から20日の3日間、東海教区宣教部主催の堅信キャンプが岐阜県の根尾クリスチャン山荘を会場に開かれました。
今年は「近づいてくださる神さま」というテーマで、ご自分の方から私たちに近づき、そして生かしてくださる神様について使徒信条を通して学びました。
小学5年生から高校生までの参加者とスタッフたちを合わせて20名ほどの小さな集まりでしたが、家族のように親しく過ごしました。バーベキューをしたり、きれいな渓流で水遊びをしたり、近くの温泉に出かけたことなど、参加者にとって楽しい思い出いっぱいのキャンプとなったことでしょう。
(キャンプ長 齋藤幸二)
九州教区 中高生キャンプ
8月3日~5日。九州教区では、今夏も「中高生キャンプ」が行われました。場所は、いつもの阿蘇山荘。きれいに床と畳が張り替えられた心地よい山荘で、中高生15名とスタッフ16名の総勢31名が、和気あいあい2泊3日を過ごしました。
今年のテーマは「イエスさまとふたりのマリア」。ふたりのマリアとは、マルタの姉妹マリアとマグダラのマリアです。ふたりのマリアがイエスさまとどのように繋がり、自らの足で立とうとしたか? それを中高生たちにも考えてもらい、自身の自立についても思いを巡らして欲しい……そのような願いをこめて、スタッフ自ら熱演スタンツや激論パネルディスカッションを繰り広げました。キャンパーもスタッフも、多いに楽しんだキャンプでした。
(キャンプ長 日笠山吉之)
宣教と財政
7月25日(土)、「教会の財政を考える」(教区主催、宣教ビジョンセンター担当)と題して、東京教会にてシンポジウムを開催しました。参加者は60名余。
宣教論には財政的裏づけが不可欠ですが、これを素通しした論が先行し勝ちです。原因は、ルーテル教会全体の財政仕組みが複雑なため、信徒だけでなく、自分を含めた牧師もよく理解していないからと思われます。この課題を克服するための会でしたが、各個教会に留まらず、実は全体教会の財政も含めて緊迫した状況にあることを知る機会となりました。ここからどう宣教のビジョンを語るのか。小手先の宣教論はもう通用しない、しかし新しい宣教論を構築する良き機会とも言えるのだと感じました。
(立山 忠浩)
会議のお知らせ
■常議員会
第23回総会期第5回常議員会が左記の通り開催されますので、議案のある方は、所属教区常議員会を経て、ご提出ください。
記
【日時】
11月9日(月)~11日(水)
【会場】
ルーテル市ヶ谷センター
以上
2009年10月1日
常議員会
会長 渡邉 純幸
書記 立野 泰博
ELCA総会 報告
アメリカ福音ルーテル教会は8月の総会において、声明「Gift and Trust(賜物と信頼)」を採択した。可決には三分の二の賛成が必要となるが、投票の結果676対338、三分の二ちょうどの得票数で可決となった。採択した声明文に基づき、それに伴う規則改正が提案され、その中のひとつで今回最大の注目を集めた同性愛教職者の扱いについても決議された。同性愛者どうしの間柄を「生涯にわたる一対一の社会的責任関係」と定義し、結婚(marriage)と区別したうえで、そのような関係にある教職者を容認するよう、各教会に働きかけていくことを議場は採択した。しかしながら今回の投票結果からもわかるように、この決議に賛同しない教会も多数あるため、マーク・ハンソン総裁監督はその事実に目を向けるとともに、相互の信頼を築くための話し合いと祈りを呼びかけた。
またもうひとつ注目すべきこととして、合同メソジスト教会とのフル・コミュニオンを賛成多数で可決した。フル・コミュニオンとは、信仰告白の共有、洗礼と聖餐の相互承認、合同礼拝、信徒の転籍、牧師とその職務の相互承認などを意味する。今回の締結でELCAがフル・コミュニオン関係を築いた教会は6教会となった。
(浅野 直樹)
FAX番号変更
松本教会FAX番号が変わりました。 FAX:0263-31-5812
全国教師会退修会報告
2009年度の全国教師会・教職退修会が、去る9月7日(月)~9日(水)にかけて、熱海の金城館において開催された。
退修会のテーマは「今日のミッション・フロンティア ~宣教、教会と社会の接点において~」である。参加は、在籍110名(宣教師含む)の内、87名。開会礼拝は、神学校創立百周年を記念して行われた。
内容としては、主としてELCAの世界宣教局長のマルピカ師の講演を始め、討議項目として、教会と接点を持つ学校法人や社会福祉法人、及びNPOの各代表の発題とグループ討議、牧師の任用と給与を巡る諸問題、牧師の研修制度等が議論された。祝福された退修会であった。
(教師会会長 高井保雄)
訂正
「るうてる」9月号の『お知らせ」欄に案内しました「神学校(ルーテル学院)100周年記念式典」の記念講演の講師のお名前が「寛」となっていますが、正しくは「實」です。訂正し、お詫びします。