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バイブルエッセイ

この名のほかに救いはない

 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)

使徒ペトロは大祭司や議員たちを前にして、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(イエスの)名のほか、人間には与えられていないのです。」と大胆に宣言しました。
 この救いとは「罪からの救い」です。世界の歴史と私たちの経験は、人間はどんなに教養があり、高い地位にあっても罪の力と死の力に勝てないことを教えています。世の中に起きている犯罪や問題を見る時、同じ罪の力が私の内に働いていることを認めなければなりません。

 聖書は人間の罪の原因として、神と人間との間にある「破れ」を見ています。人間は自分の創造者である神を認めず、自分が自分の「主」であり、人生の中心でありたいと願い、自分の欲望に従って生きてきました。こうして積み重ねてきた罪のために、本当の神を受け入れることができず、自分の人生から締め出し心の中で神に敵対していたのです。しかし神はご自分に背いたこの世界を見捨てず、救いの御働きを実現されました。

 私は、日本語の「すくい」という言葉は素晴らしい言葉だと思います。私たちが何かを「すくう」という動作を考える時、例えば水の中の魚をすくいあげるとき、網を上から水の中に投げ入れます。そして網の上に魚が来ると舟に引きあげます。その時、水の中の魚には自分で舟に上がる力はありません。同じように、神の救いも人間の世界からではなく、上から、神のもとから来ます。救いの手が神の世界にとどまっていたら救いは実現しません。それは人間の世界にやって来なければなりません。そしてその救いの手は救われるものの下に置かれます。キリストも神の世界から私たちの世界に来られ、すべての人を救うために、十字架という、すべての人の中で一番低いところにご自分を置かれたのです。人間は現実に罪を犯したので、罪の償いと赦しも現実の世界で実現しなければならなかったのです。

 そしてイエスは死の中から復活し、私たちを罪と死の世界から神との交わりの世界に引き上げてくださいました。私たちは相変わらず罪と死の力に支配されているようであっても、それ以上に強いキリストにしっかりと包まれているのです。

 人間が魚と異なり、更に恵みを与えられているのは、イエスにおいて示された神の愛の働きを信仰を通して受け入れることができるということです。神と敵対しているこの世の力に留まる生き方ではなく、キリストに信頼して生きるという愛による救いの招きに根差す生き方へと喜びと感謝をもって一歩を踏み出す恵みが人間には与えられています。

 イエスの名を信じるということは、神がイエスという方によって上から私たちの世界に来られ、現実に罪を赦し、復活して、今も信じる者と出会ってくださることを信じ、洗礼によってイエスに結ばれることです。洗礼はイエス・キリストが私にしてくださることとルターが繰り返し語ったことは大きな恵みです。なぜなら「私が信じることができない」時も、洗礼の約束が私の信仰を超えて私を捉えていてくださるからです。洗礼は教会を通して与えられた神さまの恵みの賜物です。
 

このようなイエスの救いは決して人間が考え出したものではありません。というのはこの救いは旧約聖書の中で長い間約束され、予告され、実現してきたものだからです。例をあげれば、創世記49章8節では、救い主はイスラエルの12部族の内、ユダ族から生まれることが予告されています。それから1500年の間、何度かイスラエルが他国によって滅ぼされ、ほとんどの部族が消滅する中で、ユダ族だけが救い主の到来まで存続しました。これは神の意思による奇跡でした。

 しかしこの神の救いの奥義は聖書全体の中で影絵のように示され、その実体は隠されてきました。もし具体的にイエスの出来事が記されていたとしたら、数多くの人々が「それが実現した」と吹聴し、人々を惑わすことが十分予想されるからです。そこでこの救いの出来事はそれが実現するまで秘められ、その実体は見えませんでした。しかし救いを実現した方、イエスによってその影の実体が示され、神の救いが開示されたのです。イエスの十字架と復活の出来事という光に照らして旧約聖書を見る時、それはまさしくイエスを証しする書物であることが分かるのです。

 私たちはイエスの救いに対する確信を持ち、ペトロのように、「この名による以外に救いはない」と大胆にイエス・キリスの福音を宣言してゆきたいと思います。

日本福音ルーテル大垣教会、岐阜教会 牧師 齋藤幸二

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