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バイブルエッセイ

いつもあなたがたと共にいる

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネによる福音書15・5)

だいぶ前から、私は長い時間を庭の植物や木の世話に費やしてきました。ほとんど毎日庭に出て、調子はどうか、ちゃんと生きているか確認しています。様々な木について、多くのことを学びました。どのように新しい葉が伸び、古い葉が黄色になって、地面に落ちるのかも学びました。
 私たちにとってなじみ深い枝のイメージによって、キリストにつながっていることの大切さを改めて教えてくれます。ぶどうの木と枝のイメージは特定の時代や場所に限定されていません。
 イエスは弟子たちに対して(つまり私たちに対して)こう語ります。イエスと弟子たちとの関係はぶどうの木と枝のようなものです。とても単純なイメージです。単純でありながら、神秘的でもある表現だと思います。
 木と枝のイメージは、とりのぞく、手入れをすることとの対比を通じて「つながっている」ことについて語ります。ここで「つながる」と訳されている聖書の言葉は、単なる物理的なつながりだけではなく、ちょうど母親の胸に抱かれる赤子のように、全てを委ねて安らぐという意味があります。
 

聖書箇所をよく読んでみますと、ぶどうの木と枝一本一本は、弟子たちと(私たちと)キリストとの親しい関係が、実を結ぶ力(神を愛することと隣人を愛すること)の源であることを表しているのです。
 生きているものはみな実を結ぶものだという事実が分かります。キリストは私たちが実り多い人生を送ることを期待しているのです。ここでイエスが弟子たちに語っている言葉は単なる励ましのことばではありません。実を結ぶためには栄養が必要だということを思い起こさせているのです。枝は木から命を得て実を結びます。イエスは必要な栄養を与えると約束しているのです。その栄養とは、イエスの言葉です。私たちがぶどうの木につながり、一体となっていれば、私たちも成長できます。
 
 つながっている命は豊かな命です。つながっていれば、神様を愛し、隣人も愛するのは自然な結果と言えます。
 ぶどうの木と枝のイメージから、私たちはキリストに頼っていることを改めて思い起こします。枝が木から切り離されれば、多かれ少なかれ、枝は死にます。枝は木によって支えられ、養われていればこそ実を結びます。
 ここで私が申し上げたいのは、私たちが命の源、イエスと私たちとの関係のうちに見出される命とつながっていれば、「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださる」(一ヨハ4・13)。このことによって信仰と愛が可能になるのです。
 

聖書の言葉によれば弟子たちは実を結ぶよう命じられていますが、「枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたし(キリスト)につながっていなければ実を結ぶことができない」(口語訳15・4)のです(つまり愛すること自体が無理なのです)。つまるところ、始まりは神にあるのです。神が私たち一人一人に愛の種をまいて下さいます。それは私たちが実を結ぶのに役立つのです。

 ぶどうの木は枝まで含んだぶどうの木全体です。枝はぶどうの木の一部ですが、成長したところで木の幹の代わりになることはできません。枝自身のうちには命はありません。命と愛はぶどうの木にあり、私たちが木につながっていれば、その命と愛がわたしたちの命と愛になるのです。
 イエスの「私は木である」という言葉には、約束が含まれています。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。この言葉が命令や断定ではなく、招き、そして約束であるのは明らかです。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(口語訳)という言葉です。そしてそれに続いて「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」(口語訳)とあります。イエスにつながっていることは、豊かな実を結ぶ上でとても大切なことなのです。

ジェームス・サック(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校教授)

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