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バイブルエッセイ

祝福しながら彼らを離れ・・・

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」 ルカによる福音書二四章五十~五三節)

与えられました聖書の箇所は、ルカによる福音書の最後のところです。イエスさまがご復活ののち四十日の間弟子たちに現われてくださり、神の国について教え、そののち彼らを離れて天に上げられ、栄光の座につかれました。今日はその天に上げられたときのみ言葉を皆さまと共に聴きたいと思います。

この聖書の箇所ですが、ご年配の皆さま方が以前に親しんでおられた口語訳聖書と比べてみますと、いくらか違ったところがございます。例えば51節の〔天にあげられた〕のところや、52節の〔イエスを伏し拝んだ〕のところが、口語訳では[かっこ]に入っていたことをご記憶の方もおられると思います。なぜなら、伝えられている有力な写本の中に、これらの言葉があるものと、無いものがあったからなのです。

主なる神さまは、時にまことに驚くべきことをなさいます。二十世紀も半ばになって、エジプトの中央部の砂漠の町パバウの近くで、新約聖書のパピルス断片が見つかりました。「パピルス75」と名付けられたその断片は、炭素14による年代測定で、およそ西暦二百年頃のものとわかりました。ずっと砂漠の砂の中に眠っていて、現代になって私たちの目の前に、より古い、より原本に近い写本が見つかったのです。この聖書の箇所も、その「パピルス75」の発見によって、より原本に近い内容が分かるようになった所です。今私たちが用いております新共同訳聖書にはその成果が反映されています。

初代教会の頃、ローマ帝国の迫害はそれはそれは厳しいものでした。聖書が見つかれば直ちに焼却されました。ですから、新約聖書の原本はむろんのこと、ごく初期の聖書の写本もほとんどが失われてしまっているのです。しかし当時のキリスト者たちは、洞窟や地下などの暗い部屋の中で、小さな灯をたよりに聖書を書き写しました。その一つが「パピルス75」(写真左)なのです。

筆舌に尽くし難いほどの厳しい迫害の中で、当時のキリスト者たちの宣教のエネルギーはいったいどこから与えられたのでしょうか。その原点とも言うべき聖書箇所の一つが、いま私たちに与えられているみ言葉ではないでしょうか。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と書かれています。

復活の主は、弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行かれます。50節には「彼ら」と書かれていますが、男性の弟子たちだけでなく、ガリラヤから主につき従ってきた女性の弟子たちもいたことでしょう。主は両手を上げて、弟子たちを祝福してくださいました。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられて行かれました。何と感動的な場面が描かれていることでしょうか。

すこし前、十字架の出来事のおりに、男の弟子たちはイエスさまをおいて逃げ去りました。何か失いたくないものがあったのでしょう。そしてユダヤ人たちを恐れ、隠れていました。しかしながら、そんな彼らのもとに復活のイエスさまの方から近づいて来て下さいました。み言葉を通して弟子たちの心の目を開き、さらに「あなたがたに平和があるように」と弟子たちを祝福して下さいました。罪赦され、救いと祝福が与えられた喜びに、弟子たちは心から満たされておりました。

主が祝福してくださる。そして弟子たちがほめたたえる。原文では、実はどちらも同じ言葉なのです。天からの祝福と地からの讃美が響き合います。「祝福しながら・・・」と書かれています。これは「ずっと祝福しつづけながら」という意味です。復活の主はいかなる時も、いつも私たちと共にいて下さいます。主はいつも私たちを祝福していて下さいます。パウロはそのような幸いを、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ二章二十)と表現しました。
主の豊かな祝福をいただきながら、主の証し人の一人として共に生かされてまいりましょう。

日本福音ルーテル神戸東教会 乾和雄

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