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バイブルエッセイ

隣人として生きる

て、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカによる福音書 10・36〜37)

「善きサマリア人」の譬えは、ルーテル学院大学新入生必修である「キリスト教概論」で必ず取り上げます。聖書を読んだこともない学生も多くいますから、この聖書個所からミッションスクールである本学の使命を学び、対人援助を行うための専門的な学びの土台としてもらっているのです。
この譬えは「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」というある律法の専門家の質問から始まります。その問いにイエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い直されます。律法の専門家は、申命記、レビ記にもあるように「主を愛すること」「隣人を愛すること」と満点の回答をしますが、悲しいことに彼はイエスの2つの問いのうち、「どう読んでいるか」ということには答えられていないのです。そこでイエスは「善きサマリア人」の譬えを語り出します。

 主な登場人物は、祭司とレビ人、そしてサマリア人です。祭司とレビ人は、どちらも宗教的儀礼、祭儀を行う責任を神から与えられた人たちです。神を礼拝するユダヤの人々に対しては指導的な立場にあったと言えるでしょう。 これに対してサマリア人は、ユダヤ人と同じイスラエルの民でありながら長い歴史の中で分裂が起こり、この時は険悪な関係にありました。

 譬え話は、ある旅人が追いはぎに襲われ、半殺しにされ、倒れている場面から始まります。「エルサレムからエリコに向かう途中で」との前置きがあるので、この旅人とはユダヤ人を表します。倒れている旅人のそばを、最初に祭司、続いてレビ人が通りかかりますが、これらの人々は「その人を見ると道の向こう側を通って行く」のです。彼らは急いでいたのかもしれない、また倒れている様子に恐れをなしたのかもしれない。さらに、律法では血や傷は汚れたものとされているゆえに、律法を重んじるあまり、関わりを持とうとしなかったとも言えます。つまり、律法を知っているが行えない、律法に縛られた人々をイエスはこの譬えで浮き彫りにしたのかもしれません。その後で、傷ついて動けない旅人のそばを通ったのがサマリア人でした。彼はその人を憐れに思い、近づいて応急処置をし、ろばに乗せ宿屋へと連れていき、泊りがけで介抱します。
このようにイエスは譬えを語られ、律法の専門家に言われるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」。この言葉こそ「あなたは律法をどう読んでいるか」ということであり、「あなたが隣人になりなさい」というイエスの教えです。

 私は授業でこのように話した後、学生たちに尋ねます。「ところでサマリア人が倒れているユダヤ人と出会ったのは、行きだった?それとも帰りだった?」と。答えはすぐには出てきませんが、やがて学生たちは「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」というサマリア人の言葉を見つけます。つまり、このサマリア人はどこかに出かける時に倒れているユダヤ人と出会ったのです。出かける時とは、仕事にしろ誰かに会いに行くにしろ、自分に与えられているはずの時間であり、余った時間ではありません。サマリア人は自分の時間を捧げたのであり、主イエスはそのことこそ「隣人になることである」と教えているのです。

 キリスト者として105歳の生涯を全うされ、聖路加国際病院の名誉院長であった日野原重明先生はその著書『十歳のきみへl九十五歳のわたしから』で、読者である子どもたちに次のように語ります。
「できることなら、寿命というわたしにあたえられた時間を、自分のためだけにつかうのではなく、すこしでもほかの人のためにつかう人間になれるようにと、わたしは努力しています。なぜなら、ほかの人のために時間をつかえたとき、時間はいちばん生きてくるからです。」
私たちもそのように告白するものになりたい。与えられたこの生涯は限られたものですが、その生涯を「隣人となって生きる」ことに精いっぱい捧げて生きていきたいのです。

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャプレン 河田 優

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