平和を求めてこれを追え
「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」
ルカによる福音書 2章 14節
2020年のオリンピックの開催地が東京に決定しました。今から7年後の2020年、日本はオリンピックに大いに盛り上がるのでしょう。このオリンピックは「平和の祭典」と言われます。武器を手に戦うのではなくスポーツで戦うことにその理由があると私は単純に考えていたのですが、これは半分しか正解でなかったことをつい先日知りました。日本オリンピック委員会のホームページにあるオリンピックの歴史という項に「聖なる休戦」というタイトルがあり、そこには次のように語られていました。
オリンピックの聖なる休戦
古代オリンピックにはギリシア全土から競技者や観客が参加しました。当時のギリシアではいくつかのポリスが戦いを繰り広げていましたが、宗教的に大きな意味のあったオリンピアの祭典には、戦争を中断してでも参加しなければならなかったのです。これが「聖なる休戦」です。
当時のオリンピックがギリシア一国のプログラムであったこと、また選手の参加が半ば義務付けられていたこと等の違いはあるものの、およそ「戦い」と名のつくものの手を止め四年に一度集まり、競う。この休戦こそが「平和の祭典」と言われる理由となったのです。そしてこの「平和の祭典」であった古代オリンピックが終焉を迎えたのは393年、ギリシアはローマ帝国に支配され、ローマ皇帝の信仰したキリスト教に馴染まなかったためだと言われています。
各地の教会、特にギリシア地方の教会に送った手紙の中で(おそらく)オリンピック競技を引用した伝道者パウロが、オリンピックを好んでいたか否か、観戦したことがあるのかないのか、聖書は何も語ってくれませんが、まさかキリスト教の信仰が古代オリンピックの幕を閉じることになるとは、彼も思ってもいなかったことでしょう。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」
クリスマスの夜、羊飼いたちは主イエス・キリスト誕生の知らせと共に天使の歌声を聴き、幼子と出会い、そして彼らは賛美しながら帰っていきます。彼らは救い主の到来の喜びと共に、平和の訪れもまた声たからかに歌い、人々に告げ知らせたに違いありません。
さて、冒頭に挙げさせていただいた説教題は1968年にプラハで行われた第三回世界キリスト者平和会議の開会礼拝で語られた鈴木正久牧師の説教題です。この中で氏は「イエス・キリストによって、世界と歴史の畑の中に、平和の種子が確実にまかれており、終末的には成就するものの、現実の世においても、人間のあらゆる怠慢や誤りにかかわらず、神ご自身の業として平和の種子は成長し広がっており、すぐ近くに迫ってきているとし、私たちの課題は、ここで与えられている神の恵みと賜物を空しくしないこと」であると語ります。
「平和の祭典」がお題目となるのであれば、そこには空しさを禁じ得ません。「平和の祭典」が行われる日本の憲法から9条が奪われようとしている今日、そこには空しさを禁じ得ません。羊飼いたちの歌声が「みことば」としてではなく「歌詞の一節」としてのみ存在しているのならば、そこには空しさを禁じ得ません。「平和を求めて、これを追う」、鈴木師は「真理の言葉に固く立つこと、自由であること、大胆に生きること」この三つが互いに関連し、私たちが共に生きる道を探求し、追求させていくと語ります。パウロは私たちが教会に招かれた理由を「キリストの平和のため」であるとはっきりと語ります(コロサイ3・15)。
「平和」が空しく聞こえないために、私たちは今この時、平和のみ子の誕生を喜び歌い、もちろん7年後もかわらず「平和を求め、これを追い」続けるのです。
日本福音ルーテル千葉教会 小泉 嗣