「香り立つ愛」
「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ福音書12・1~3節)
マリアが主イエスにナルドの香油を注ぎかけた出来事の中で、私は次の点に注目したいのです。これが主の葬りの準備としてなされ、ラザロが共におり、香油を主の足に塗った、という三点です。
直前の11章には、主イエスがラザロをよみがえらせた出来事が記されています。つまり、ヨハネ福音書は、ラザロのよみがえりと香油注ぎの出来事が結び合わされているのです。ラザロのよみがえりは、主イエスの最後にして最大のしるしとして、ご自身が復活であり命であることを示された出来事でした。と同時に、主イエスの暗殺を決定的なものにしました。主は地上での全てのしるしを終え、エルサレムにこれから入って行かれるのです。そして十字架へと向かう最後の時を、主は、マルタ、マリア、ラザロの家で過ごされることを選ばれたのでした。
マリアは主イエスの足に香油を注ぎます。主の足は、迷える羊を捜し続けて歩まれた足、こぎ悩む弟子たちを救うために湖を歩いた足、そしてゴルゴタに向かい、十字架に釘づけられる足です。普通は頭に香油を注ぎます。頭以外に香油を注ぐというのは、死者に対して行われたことです。マリアは、主イエスの死をどこかで意識していたのでしょう。
この時、主イエスが数日の後に、十字架につけられることは、主以外には誰も予想していません。マリアも十分には分かっていなかった。実際、この家の外には主イエスを殺そうとする人々が待ちかまえていたのです。けれども、おそらくマリアは、ラザロの死と復活に接した時、はっきりと、主イエスの受難を意識したのだと思うのです。このお方が、「死の死」となるために、ご自身をささげて下さるメシアであることを。
マリアは、ラザロの死に際して、誰よりも深く悲しみに暮れていました。マルタが自分なりに復活を信じて、死の悲しみを乗り越えようと気丈に振る舞っていた時も、ただふさぎ込んで泣いているだけでした。愛する者との関係を引き裂く死の力の大きさを、誰よりも深く体験していたのです。だからこそ、主イエスが「ラザロ、出てきなさい」と大声で語りかけた時、マリアはこの方こそ確かに、死の力と戦われる方であることに気づき始めたのではないでしょうか。それが、どのような仕方でなされるかは、はっきりと分からなくても、この小さな家族を襲った死の力とその悲しみを、担って下さる方であると信じたからこそ、香油を惜しみなく注いだのです。それこそが、自分に出来る最高の感謝の奉仕だったからです。
この家の中は香油の香りで一杯になりました。その行為を主イエスは、ご自身の死への備えとして受け入れて下さいました。憎しみから、主イエスを死に至らしめようとする者がいる中で、主の愛に応えて香り立つ葬りの備えをマリアはしたのです。
このベタニアの姉弟たちの家を、世に建てられた教会と重ねて読むことが出来ると思います。世には、死の匂いが満ちています。人間の罪が覆っています。私たち自身も、そのような力に支配されて生きています。しかし、主イエスの下に集められ、十字架によって死の力を打ち破り、私たちの涙を全て拭いさると約束して下さった希望へと心を向けて行く時に、他人からは無駄だと思われるような奉仕を、私たちは感謝と喜びをもって行う者へと変えられていくのです。
マルタはもう以前のように、家宝であるナルドの香油を無駄遣いするマリアを叱責したりはしません。以前のマルタだったらユダが文句を言う前に激怒していたことでしょう。しかし、今のマルタはマリアと同じ心です。マリアの愛の無駄遣いに先だって、主イエスご自身が私たちに対して無駄遣いとしか言いようのない愛を惜しみなく注いで下さっているからです。この限りない神の愛の無駄遣いが、この私にも注がれているということを知る時、私たちもまた神様に私たちの最上の真を、喜びをもってささげていくことができるのです。
「ラザロの復活」レアンドロ・バッサーノ作・1610年