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バイブルエッセイ

「もう少し、できることもあるのでは」

「主は多くの民の争いを裁きはるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。」(ミカ書4・3)

 第2次世界大戦後80年、広島と長崎への原爆投下より80年の8月を迎えています。世界に戦争や紛争、また核の脅威が続いていることは、本当に嘆かわしいことです。人類は何と愚かな存在かと、つくづく思わされます。しかし、それでも私たちは、神様の願われている世界へと、歩みを進めていかなければなりません。
 るうてる8月号巻頭説教に、平和の主日の旧約聖書から一つの節を記させていただきました。ミカ書4章3節です。日課は1節〜5節ですが、3節が皆さんにもピンとくるのではないでしょうか。これはイザヤ書2章4節と同じ内容です。もろもろの国と民に対する主の教えは、戦争をするなということです。戦争は主の喜ばれるところではないということです。簡単明瞭です。どんなに戦争について正当な理由付けをしようと、そんなものは通じません。戦争は、もし起きてしまっても、即座にすべきことは、関係国すべてが自分たちは愚かであったことをざんげすべきだということです。そして、一刻も早く戦争を止めるための最善の努力を、解決に至るまで、世界も共にすべきだということです。
 私たちの国は先の大戦にて特に、大変深い罪を犯しました。国の過ちは国民一人一人の過ちであり、キリスト者の責任も重いです。だからこそ私たちは「宣教百年」のとき「信仰宣言」を採択し(1993年8月)、次のように告白したのではないでしょうか。
 「主はこの世界の創造主であり、歴史の支配者です。この主が、私たちにキリスト者としての使命をお与えになりました。しかし今、近代日本の百年余に重なる私たちの教会の百年の歴史を省みるとき、主のみ言葉に聴き続けえなかったことを、深い痛みの中でざんげします。とくに、第二次世界大戦を含め十五年戦争のあいだ、私たちの教会は神のみを神とする十戒の第一戒を守り抜くことができず、また平和を実現するようにとの主の戒めを生きることができませんでした。(中略)行なうべきではなかったことを行なってしまった罪と、行なうべきだったことを行なわなかった罪とを、神と隣人の前に、とりわけアジアの人々の前に犯しました。(中略)私たちはこれら全てを主のみ前に心よりざんげし、主と隣人の前に赦しを願い求めます。」
 そして、宣言の最後の段落で、次のように決意表明しました。
 「私たちは、教会に対する責任のみならず、神の国を地上にもたらすためにこの世界に対してもとりなしの祈りと働きを神から託されています。すなわち、神によって与えられたいのちを守ること、正義と平和の実現、全ての人々の和解、全ての被造物が創造の目的にかなって完成されることのために努力します。」
 私は、この団体が、口だけではなく、信仰の表出である行いにおいても、証の立てられることを願います。聖書には「あなたがたはその実で彼らを見分ける」(マタイによる福音書7章20節)とあります。また、平和の主日の福音書日課でも主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハネによる福音書15章12節)と言われていますが、恵みとまことに満ちた主イエスに倣う歩みを、私たちは真剣に求めていく必要があるように感じます。毎週、ざんげ告白は聞きますが、組織全体としての悔い改めにふさわしい実はあったでしょうか。そうは思えません。また、たまに全国総会で社会的声明の採択もありますが、どれだけ具体的取り組みがされたでしょうか。皆、組織維持で終始です。主はそれでも私たちを受け止めてくださっていますが、もう少し、主の喜ばれることもできるのではないでしょうか。
 世界で起きている悲劇に対しても、私たちは主が決して喜ばれていないと感じることについては、もっと強く、そして何度も、声を上げていくことが大事ではないでしょうか。他にも同様に、期待されていることがたくさんあります。虐げられた人を解放する主の働きに連なることは、実は私たち自身をも解放していくのです。主と共に行きましょう。

『永遠の平和の上に Over Eternal Peace』
イサーク・レヴィタン作 1894年

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