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バイブルエッセイ

普通の人を遣わし、奇跡を起こす神様の神秘

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23・1)

 皆様はじめまして。デイビッド・ネルソンと申します。今年の3月に日本ルーテル神学校を卒業しました。3人の同級生と共に3月に按手を受け、4月から日本福音ルーテル教会の宮崎教会、鹿児島教会の主任牧師となりました。念願の目標だった、日本福音ルーテル教会の牧師になれたことを大変喜んでいます。
 牧師になることは神様からの「召命」によるものなので、JELCの牧師になるのが「目標」だったという言い方は不適切かもしれませんが、私たちはルター派のクリスチャンです。同時に救われたものでありながら、罪人です。信仰心の部分だけが清い美しいもので、この世的な部分が汚れたものというふうに奇麗に分かれていません。全てが清いものと汚れたもののミックスです。牧師になりたい志も罪に満ちたものです。
 しかし、ストーリーはそこで終わりません。欠けた器である私たちは神様の導きにより、遣わされるのです。神様は私たちの誤解や勘違いなどをそのまま野放しするのではなく、羊飼いとして私たちを導き、御心にかなう御国造りのために遣わします。普通の水、普通の器、でもイエス様が一緒だと、カナの結婚式に奇跡が起こりました。私たちも一人一人、つまらない願望、つまらないモチベーションをいっぱい持ちながら目標や夢が形成されます。しかし、イエス様が一緒です。迷える羊に、信頼できる羊飼いが付いています。ですから、奇跡が起こります。「奇跡」というのはスプーンが曲がる、みんなをビックリさせるようなサーカスのショーのようなものではありません。奇跡は神様がこの世においてなさる業です。特に、心の奥の深いところになさる業です。憎しみや嫉妬の心が寛大な心に。がっかりした心が生き生きした希望に。これが福音の美しさ、福音の力だと私は信じます。
 私がイエス様を信じて生きたい気持ちを持っているのは父リチャードの影響が大きいと思います。父リチャードは牧師であり、宣教師であり、教会の中でも、家の中でも、裏表のない、純粋な素直な信者でした。優しい、思いやりのある人でした。そんな環境で生まれ育つと、同じ信仰を共有したい気持ちになるのは当然のことでしょうね。ですから、私は自分で選んで、信じるものになったのではなく、単に選ばれたものです。
 しかし、父リチャードが1953年に日本で伝道をはじめた時、最初は大変だったそうです。住む場所、礼拝を行う場所、なかなか借りることができませんでした。知り合いや紹介者が1人も居らず、らちが明かなかったようです。その状況がしばらく経つと、がっかりして、焦りました。伝道師としての成果が全くない、最初の一歩も切り開けない惨めな時でした。しかし、絶望のどん底の暗闇の中に、突然に打ち破る光が訪れました。まともな日本語ができない、アメリカの田舎町から来た不器用な20代の伝道師の青年に助けの手を差し伸べる日本人が現れました。その方は、公立の施設の施設長でした。幼稚園が付いていて、日曜日は使ってないので「どうぞ礼拝のために使ってください」とのことでした。その方はクリスチャンではありません。多分「宗教」にも興味なかったと思いますが、聖書の話を聞いて「何かいいものがある」と感じたのでしょう。普通の人、普通の戸惑い、でもイエス様の導きにより奇跡が起こり、伝道のチャンスが生まれました。
 私は宮崎教会、鹿児島教会という二つの歴史のある教会の主任牧師となりました。両教会は10人前後の小さな群れになっています。ここに教会が存在し続けているのは、この小さな群れが教会を懸命に守ってきたからです。こうした粘り強い信仰心を持つ方たちと一緒にこれからの教会を考え、形成していけることは光栄なことであり、ワクワクします。私たちの羊飼いの業に期待しながら、南部九州の伝道に励みたいと思います。

イエスの御名の礼拝/エル・グレコ 1577-1579年 エル・エスコリアル修道院

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