「主の変容に励まされ」
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」」(マルコによる福音書9章7節)
私たちは希望がなくては一日たりとも生きてはいけない。それは平和な状況ばかりか、戦時下においてですら同じではないだろうか。常に死と隣り合わせているような暗闇の中にあっても、人は希望を持ち続けて生きることができる。
主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを「連れて」、高い山に登った。それはやがて福音を伝える中核となる者にご自分が変容する姿を見せて、ご自分が誰であるかを教え、死を超える希望を悟らせるためである。
2節の「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」の箇所は原文では受動態の動詞が使われている。それは主イエスがご自分で姿を変えたのではなく、この3人のために、父なる神によって姿を「変えられた」のだと示すためだろう。ギリシャ神話の神も映画のヒーローたちも自ら変身するが、主の変容はそのような変身ではない。100%人間である主が、実は100%天に属する存在であることを、天における輝きを垣間見せることによって示してくださった。
主イエスの正体をいっそう明確にするのは4節のモーセを伴ったエリヤの出現である。エリヤは天に取り去られたと信じられていた。そのエリヤが現れたことは、主イエスが天に属する存在であることを証ししている。つまりエリヤがモーセと一緒に姿を現したのは主イエスのためではなく、この弟子たちが、自分たちは今天の有様を目にしていると信じさせるためだと考えられる。
変容は主イエスの正体を示す出来事だが、なぜ主はご自分の正体を示す必要があったのだろうか。この記事の前にはペトロの告白があり、主による受難予告とペトロの誤解が語られ、主は弟子にも群衆にも十字架の道を歩むようにと語りかけられる。つまりマルコは主の変容の意味は受難との関係の中で考えるべきだと指し示しているのである。「自分の十字架を背負って私に従え」と十字架の道を示されているとおりだ。
ペトロは主の変容を見て言葉にできない喜びを味わったことだろうが、彼はそれに溺れっぱなしではない。この事態を確かなものにしようと知恵の限りに思い巡らす。彼の結論はそれぞれに小屋を造り、この天の栄光を地上につなぎとめることであった。
このことからペトロは主から受難を告げられても、相変わらずメシアの受難をよく把握できずにいることがわかる。主イエスの栄光の姿を見るとそれを永遠に残したくなり、小屋を造ろうとする。しかしメシアとしての主イエスをとどめることはできない。メシアは苦しまねばならないからだ。神が人類の救いのためにお定めになった主イエスの道は十字架の道である。その道の先には、ペトロたちが今目にした栄光がまっているのだが、ペトロの思いはそこに至らない。ペトロたちは、「これに聞け」というこの時に聞こえた神の声に従うことができなかった。それは彼らが「恐れた」からである。恐れは見るべきものを見えなくする。彼らはこの時はまだ十字架の先に栄光が待っていることを悟りえなかった。
この高い山でのペトロたちの体験を通じて、神は信じる者に主の変容と復活の栄光を見せてくださる。私たちもこの出来事に励まされたい。十字架を背負って生きるとき、あの高い山で主が変えられたあの天上の輝く姿を心に描くことができるのは希望だ。十字架を背負って生きることの意味はそのまま主の変容の意味に直結している。
終わりの日には、私たちの目から涙はことごとく拭われる。それまで私たちには嘆きも労苦もつきまとう。それは避けようのないものだ。そんな私たちに、主は「大丈夫だ」「安心なさい」と栄光の姿を見せて励ましてくださる。この物語を何度も読み直すうちに、温かく安らかな光りが心に満ちてきた。
主はどんな苦難の中をも共に歩んでくださいます。私たちを、あなたを、必ずや光の中へと伴ってくださいます。ハレルヤ!
「主の変容」・ラファエル作・1516年頃・油絵・ヴァチカン絵画館蔵」