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バイブルエッセイ

わたしが示す地に、祝福の源として

主はアブラムに言われた。/「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」
(創世記12章1節)

 教会が置かれている状況の厳しさが叫ばれ続けるなか、さらにこの数年の新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、これまでどおりの活動を続けることが難しくなった教会も多いのではないでしょうか。またカルトやカルト2世の問題が取り上げられる今、わたしたちは伝統的な教会として、献金で成り立つ教会の活動についても、子どもたちへの次世代の宣教にも、より丁寧な対応と深い配慮、神学的な検証が求められているでしょう。まさに今は教会にとって、先が見えない不安のただ中にあるときではないでしょうか。しかしそのとき、わたしたちは一体誰なのか、そしてその行く先はどなたが備えるのかということをもう一度、確認したいのです。
 この箇所で語られているのは、イスラエルの祖先となったアブラム(のちにアブラハム)が神様の召しを受けて旅立ったということです。今から約4000年前のメソポタミア、現在のイラクのあたりの大都市で裕福な生活をしていたアブラムは、75歳になったとき、それまで知らなかった主なる神様に出会い、この神様を信じ、その言葉にしたがって行き先を知らずに旅立ちます。
 その神様のご計画は、地上の氏族がすべて祝福に入るということでした。この祝福をもたらすためにアブラムは召し出され、そして神様の救いのご計画は、やがて神の子イエス・キリストが来られることへと続き、今、イエス様を信じるわたしたちへと受け継がれています。神の民であるわたしたち教会は、神様の救いのみわざに参与し、その恵みを分かち合い、すべての人に神様の祝福を伝えるために召されています。それはわたしたち教会がアブラムのように、この世の安定や繁栄に頼るのではなく神に召し出された旅の途中にあるということでもあります。現代の教会を取り巻く状況の中で、人間的には先が不安になることもあります。しかしわたしたちの行く先は、神様が「わたしが示す地へ!」と言われるところです。それはわたしたちが、神様を信頼することへ招かれているということです。
 なぜなら、教会は終わりの日、イエス様が再び来られる日まで旅人だからです。その日まで教会は途上にあり、その姿はいつも変わりゆきます。ある時点の姿が永遠に安定した理想的なものであるというわけではありません。つい、かつての教会の姿が懐かしく感じることがあるかもしれませんが、教会とはそもそも変わりゆく存在であるがゆえに、変化を恐れないのです。アブラムは神様の祝福の御計画のため、慣れ親しんだ環境から抜け出さなければなりませんでした。これまで築いた安定した地位に頼るのではなく、神様だけを頼りに彼は出発したのです。地上を旅する神様の教会は、地上では行く先を知らないかもしれません。しかし終わりの日の御国が示されており、その日に教会は完成します。その日まで、わたしたちは神様がこの世を愛しておられるその働きを実際に地域の中で表していく存在であり、祝福のご計画に召し出された者です。
 ですからわたしたちは、それぞれの教会に与えられた神様のご計画を信頼します。神様はいま、この町でわたしたちの教会を通してどんな祝福のご計画をなそうとしておられるのでしょうか。確かにわたしたちは、この世の中では小さく弱い存在かもしれません。しかし自分の力がないからこそ、そこに頼ることができないからこそ、聖霊の力が先立って進みます。小さな存在であるかもしれないけれども、そのような教会の姿にイエス様の十字架の姿が現されていきます。このイエス様の十字架こそが、神様の救いを現したのです。そしてわたしたちは、十字架の道のりが復活へとつながっていることを知っています。ですからわたしたちは、召し出されたそれぞれの場で、神様のご計画を大胆に信頼し、御国をめざし地道に目の前の宣教のわざを今日も果たしていきたいと願います。
「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(一ペトロ3・9c)

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