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バイブルエッセイ

神の業に招かれる

 「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、
神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。
不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
(ルカによる福音書1章35~37節)

  信仰という恵みを与えられていると自覚している私は、日々神への愛と信頼をもって誠実に生き生きと過ごしたいと願いつつも実は全くそうではないと思い知らされることが多々あります。ときには「私には荷が重すぎます」と職務を投げ出して逃げ出したくなることもあれば、疑いや迷いをぬぐい切れず、ふて寝して、翌日には奇跡が起きていることを願っても、相変わらず厳しい現実を前に深いため息から一日を始めることもあります。もしかしたら、この文章を読んでくださっているあなたも、思いがけないトラブル、痛ましい現実、信じたくないような悪意、自分の力ではどうにもならない状況を前にして立ちすくんだという経験をお持ちかもしれませんね。
 マリアが聞いた「おめでとう。」の言葉も途方もなく重たいことばであったと思います。にもかかわらず、彼女は自分の身に起きたことを引き受け、人生を神の働きに委ねていくようになりました。そこには「主があなたと共におられる。」(ルカ1・28)という約束や「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」(ルカ1・36)という御言葉の力があったと思います。神の業に巻き込まれたのが自分だけではないという情報は、マリアにとって心の内をわかちあう他者がいるという安堵となったに違いありません。そして、エリサベトを訪ねてしばらく共に過ごした時間は彼女たちにとって豊かなものであったでしょう。
 世界的なパンデミックが私たちの日常を激変させ、気候変動による大規模な災害が各地で起こり、軍事暴力がはびこる中、福音を語る、福音を生きるということの難しさをひしひしと感じています。そのような中で、一つの祈り会に招かれました。きっかけは「親しい友人やその家族のために祈って欲しい」という個人的な呼びかけ。それまで、ミャンマーという国についての知識も関心もほぼ皆無でしたが、2021年2月1日の軍事クーデータ以降、毎週金曜日にオンラインで行われている祈り会に参加するようになって、かの国で起きている暴力が私たちの生活と地続きであることを知らされました。
 祈り会から生まれたアトゥトゥミャンマー(ミャンマーと共に)支援という小さな支援団体では、ミャンマー本国の支援と共に日本で生活されているミャンマーにルーツを持つ方々とも連帯しています。奉仕や運営に携わっている仲間たちに感謝しながら、祈り会でわかちあわれるそれぞれの思いに自分の思いを重ねます。リアルタイムでわかちあわれる情報の中には目を背けたくなるものも少なくありません。それでも嘆きや悲しみを持ち寄り、呻きと沈黙に押しつぶされそうになっても、神は、どのようなときにも人の呻きや、呟きに耳を傾け、心を向けてくださっていると信じて祈り続けることで、今日を生き抜く力を得るような思いでいます。
 神の御子は、弱く、もろく、不安定な存在として、この世界にお生まれになりました。マリアも、嬰児として生まれ、その身を人の手に委ねられた幼子の重み、ぬくもりを通して、神の業の担い手として招かれたことを感じたことでしょう。現代は、当時とはまた違った苦しみと悩みが世界を覆っています。そのような中にあって、私たちはクリスマスをどのように待ち望んでいるのでしょうか。キリストの誕生は、私たちに神の約束が必ず成就するということを教えてくれる出来事です。そして、神が御心を顕されるときに、私たちを求め、働きの中に招いてくださっているということも教えてくれています。だからこそ、自信がなくとも、しんどくても、辛くても、福音を語る、福音に生かされる幸いを伝える務めに踏みとどまりたいのです。《神にできないことは何一つない。》という御言葉に立ち、すべてをご存知の方が、命と希望へと私たちを押し出てくださることを信じて。

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