「こうされたから」と 「こうされたのに」の生き方
「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」 (申命記10章19節)
私のいる教会の一つでは、雨漏りや耐震問題で補修工事が始まりました。トラックが2台来て、礼拝堂を覆う足場が組まれました。朝の挨拶後は牧師館で仕事をしましたが、夕刻外に出ました。気になる事があったからです。彼らの会話に、外国語風日本語も聞こえたのです。「外国人の人もおられる?」と責任者に聞くと「はい、1人います。ブラジル人です」とのこと。「紹介してよ、話してみたい」とお願いして青年に会いました。ポルトガル語で話かけると皆びっくり。彼は喜んでくれ、故郷のこと、日本での生活、家族との死別や離別、でも何とかやっていることなどを、一気に話してくれました。私もブラジルに10年いて苦楽が色々あったことなど、共有する濃厚な時間でした。「今度はいつウチに来る?いつでもおいで。おしゃべりや食事しよう!」と名刺を渡し握手しました。トラックに分乗し会釈をしながら帰っていく彼らの後を、原付バイクのブザーを数度鳴らして「チャオ!(さいなら)」と手を振って彼も帰っていきました。
新しく日本に来た様子の外国の人を見ると、声をかけたくなります。私たち夫婦も外国で苦楽を味わった「ガイコク人」の経験があるからでしょう。日系人だけでなく技能実習生のアジア諸国の人たちにも教会で日本語を教え、手続きや仕事のことでも通訳をしたりもしています。泣いたり笑ったりする彼らとの時間は、私をも支えてくれます。
旧約聖書で「寄留者を愛せよ」と神は言われます。「選ばれた民」は異教の他国人とは対決し、旧約の神は排他的で厳しいだけというのは思い込みのようです。その説明ともいえる続きが心にしみます。「あなたがたもかつて寄留の民だった(のだから)」とあるからです。
飢饉で食糧危機の際、食糧を備蓄していた隣の大国に行き、感動の再会と和解をしたヨセフの兄弟や家族たちはエジプトに身を寄せました。現代の食料難民や労働難民が他国に流入するニュース映像を思い出します。時が過ぎて異国での待遇は劣悪になり、神に選ばれたモーセと共に脱出します。それを思い起こさせ、次の世代にも伝えながら、もう一度神の救いの歴史と律法を説明し、従うように決断を迫るのが申命記です。
さて、私たちの生き方はどうでしょうか。外国人に対する接し方だけの話ではありません。
「自分がいやなことは、人にはしない」とか、「良くしてもらったから、良くしてあげよう」と教えられました。しかしそれは裏返せば、「人にひどい仕打ちをされたら、仕返しをしよう」という気持ちにもなるのです。どうしたらその連鎖は断ち切られることができるのでしょう?それは、「こうされたから」という気持ちから「こうされたのに」への転換が必要です。そのために来られたのが、イエス・キリストでした。「自分を愛する人を愛するのは当然だ。敵を愛しなさい」といわれ、その通りに生き、その通りに十字架で死んでいかれたのです。
「敵を愛する」、それは私たちにはできません。もう一度ここで「こうされたから」という言葉が必要です。今度は、自分にひどいことをする人を思い出しながら「こうされたから」ではなく、神や人にひどいことをした何をやってもダメな自分なのに赦してくれたキリストを見上げ「キリストにこうされたから」と思うと、私の中で新しい自分が少し始まります。申命記の言葉とキリストの姿が呼応するように心で響きます。
平和を祈り献金も送りますが、戦禍は続きます。コロナ禍で孤独や難しさを味わい生活も苦しくなります。日本で暮らす外国人の方々も影響を受けています。
キリストが開いてくれた新しい生き方にもう一度目覚めましょう。そのために、神様はいろんな人に出会わせているのかもしれません。私は難しい政治的な活動はできませんが、身近な出会いから手を取り合いたいと思わされます。皆さんは誰に出会って生きますか?小さいことから、何かが始まります。個人にも、家庭にも、教会にも、そして世界にも。