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バイブルエッセイ

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
ルカによる福音書24章6節a

 イースターおめでとうございます。この朝、イエス様は死からよみがえられました。私たちの罪のために苦しみを負われ、十字架で死なれたイエス様は、父なる神様によって高くあげられ、復活して永遠の命を生きておられます。イエス様が救いのみわざを成し遂げてくださったことを記念するイースターの礼拝は、教会の一年の中で最も大きな喜びの時です。
 ルカ福音書の復活物語は、イエス様に従っていた婦人たちが早朝に香料を持って墓に出かけるところから始まります。香料を遺体に塗って、葬りを完了させるためです。婦人たちはイエス様が死んでしまった悲しみを感じつつも、どこかでイエス様の死を受け入れて、しきたり通りの葬りをするために現実的に行動しています。
 しかし婦人たちが目にしたのは空の墓でした。さらに彼女たちはみ使いからイエス様の復活を知らされます。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」と言われた婦人たちは、イエス様が確かに「わたしは死んで復活する」と言われていたことを思い出したのです。
 そうして婦人たちはイエスの復活を確信します。彼女たちは墓から帰って、弟子たちとほかの人皆に一部始終を知らせました。イエス様の墓が空になっていたこと、み使いが現れてイエス様の復活を告げたこと、そして確かにイエス様はご自分の死と復活を約束されていたということ…彼女たちは驚きと興奮、そしてかつてないほどの喜びにあふれてイエス様の復活を告げ知らせたに違いありません。
 しかし報告を受けた弟子たちは彼女たちを信じませんでした。はじめ婦人たちがそうであったように、弟子たちもイエス様があらかじめ言われていたことを理解していなかったのです。イエス様が「わたしは死んで復活する」と言われていたにもかかわらず、死は終わりであって、復活などたわ言だと思っていました。
 これまで熱心にイエス様に従ってきた人たちであっても、イエス様が死んでしまってさすがにあきらめムードといったところでしょうか。私たちがそこにいても、多分同じような反応をしたと思います。人間の力ではどうにもならないことがあると受け入れて、現実的に行動しなければ、この世の中を生き抜いていくことはできないからです。
 私たちは生きていくうえで色々なことをあきらめ受け入れています。年を取ること、病気になること、人との別れ、どれもしんどいことですが、どこかで仕方ないと割り切って、前に進んでいるのです。新型コロナウイルス感染症が流行って今まで通りの生活が送れなくなっても、なんとかその中で折り合いをつけて、今できることを探して生きています。人間の力ではどうにもならないことがあるというのは私たちが常々実感していることです。
 なかでも死はその最たるものです。どんなに大切な人がいたとしても、みんないずれ死にます。死んでしまったら二度と地上で会うことはできません。別れの悲しみは大きく深いものですが、だからといってどうしようもないということを私たちは心のどこかで知っています。この世の中に絶対はなく、永遠に続くものもないからです。
 しかしイエス様の復活は、神様の約束だけは絶対であり永遠であるということを私たちに告げています。神様の約束通り、イエス様は死からよみがえられ、私たちを救って、私たちを永遠の命へと招き入れてくださいました。死でさえも私たちからイエス様を奪うことはできません。イエス様の愛だけは私たちがあきらめる必要のないただ一つのものだからです。
 この復活の朝、死さえも超えて、イエス様は私たちのところに戻ってきてくださいました。イエス様の愛から私たちを引き離すものは何もありません。このことだけは永遠に変わらない真理、決して取り去られることのない喜びです。イースターおめでとうございます。主の復活の喜びを共に分かち合いたいと思います。

M.グリューネヴァルト作「復活」(1511〜1515年)
コルマール・ウンターデンリンデン美術館所蔵

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