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機関紙るうてる

るうてる2017年10月号

説教「絶えず新たに開始する教会」

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「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」(テモテへの手紙二 3・15)

「牧師は総辞職せよ」。私の人生で衝撃を受けた言葉の一つです。
 事務局勤務だった頃、日本キリスト教連合会主催の宣教講演会に出席しました。講師は牧師、宣教師、信徒(ビジネスマン)が集まり、福音宣教の拡大を目指しキリスト者の人口比1%越えを目指している信徒リーダー達でした。テーマは「日本のキリスト教界の現状と展望」。副題に(エリヤのように、私は変わる、あなたも変わる、日本が変わる)、ユニークで力強い講演でした。
 その中で「牧師は総辞職せよ」と提言されたのです。この百年いまだ人口の1%以下しかキリスト者になってない状況の責任は牧師にある。「牧師は、戦後の働きを自ら深思し、先ず一度、総辞職せよ」と言われたのです。業績をあげられないなら会社ではクビなのですとも。教会と会社は違うという意見もありますが、真摯に受けとめようと思いました。

 教会、牧師信徒は、宣教に本気で取り組んでいるか。人々に届くキリストのみ言葉を語っているか。そのために努力し、創意工夫しているか。どうせ1%だからとあきらめてないか。教会の維持、内向的なことばかりになってないか。全世界に福音を宣べ伝えているか。聖書を読んでいるか。かなりチャレンジを受けました。

 その時、大切なことは「ミッション」であると教えられました。使命です。遣わされた教会が、何を神様から与えられたミッションにするか。それで教会も牧師信徒も変わってくる。そのミッションを「最優先事項(トップ・プライオリティー)にする」こと。神様から与えられた私の使命は何か。それが分かれば、今やるべきことは見えてきます。他のすべてのことを停止してでも、その一時に集中する。それが最優先事項という意味です。その一時を聖書の中から見つけることです。
 そこでルターの『キリスト者の自由』を読んでいます。教会の信徒の願いで、しぶしぶ読みはじめたというのが本音です。読み進めていくうちに、ぐんぐん引き寄せられ、毎週1回の読書会が待ち遠しいです。教会の生きた現場で読みました。
 ルターの言葉で衝撃を受けた言葉を一つ。「使徒はキリスト者に対し、目覚めよ、と言って、勧めている。なぜなら彼らは目覚めていないならキリスト者ではなく、神の道に立ち止まっていることは後退していることだからである。前進するとは、つまり絶えず新たに開始することである」という言葉です。

 キリスト者に大切なのは過去ではなく、今どうするかです。昔はということは、キリストの前からだんだん後退していることです。自分に出来ることを何かひとつでも絶えず新たに始めることです。教会の宣教のために祈ることもまた、新たに自分が開始することなのです。
 宣教の現場に戻って新しいことをたくさん始めました。中高生がいる教会、楽しい教会、人が絶えず溢れる教会、未来にむけて成長する教会を目指しました。まず教会集会室をカフェスペースに。扉は24時間オープン。様々な楽しいカフェ企画。毎日の朝礼拝。礼拝堂を聖なる空間に変える。礼拝に来られる方が毎週何か変わっていると言われます。絶えず新しく始まっている教会でありつづけました。とにかく外へ向けての宣教を最優先事項にしてきました。結果はどうぞ大江教会にいらしてください。

 しかし、一番大切にしたのは「み言葉」と「祈り」です。宗教改革500年にむけて何をするか。まずは「聖書のみ」に立ちました。礼拝堂にある講壇用聖書の通読を始め、3年間で3回の通読。毎日3章ずつ礼拝堂で読み続けています。まもなく3回目が終了します。さらに礼拝堂で祈る。毎日誰かが礼拝堂で祈る。これだけのことで教会は改革されていくのです。物置状態であった礼拝堂が聖なる空間となります。

 宗教改革500年の10月をむかえました。私たちの教会にとっては501年が大切です。記念とならないように。そして「絶えず新たに開始する教会」でありたい。それぞれのミッションに従って。
日本福音ルーテル大江教会、鹿児島教会、阿久根教会 牧師 立野泰博
 

連載コラムenchu

19【peacemaking 】

「国民を戦争に巻き込むのは、常に簡単なことだ。自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして、平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。この方法はどの国でも同じように通用するものだ」。これは、ナチス政権の国家元帥であったヘルマン・ゲーリングの言葉として知られているものです。
 私たちの社会では、今、人々を戦争に巻き込むための言葉がたくさん飛び交っているように思えます。先日も、「自分はなにがあっても銃は持ちたくない」とコメントしたお笑い芸人の村本大輔さんが、「お前の頭の中はお花畑か」と非難の的になりました。しかし、そんな非難を受けた後、村本さんはこう言っています。「お花畑が出来るには肥料が必要。その肥料は過去の広島長崎原爆や特攻隊、過去の戦争で亡くなっていった人の悲しさじゃないの。もう一度荒地にするってのは一番過去に失礼なんじゃないのか」。
 私たちが戦争に巻き込まれない「わたし」でいるには、悲しみを抱きつつ生きることが必要なのではないでしょうか。それは、いろんな意味で、泣きたくなるような気持ちを抱えて生きるということです。不安を煽る言葉や排他的な言葉が飛び交う中で、私たちは、蛮勇となるのではなく、また、思考を停止するのでもなく、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6・33)と教えられた主イエスの言葉を胸にとめ平和の言葉を発していきたい、と思います。そう、レヴィナスは言っています。「平和とは、ことばを語ることができる能力として生起する」と。
岩切雄太(門司教会、八幡教会、佐賀教会、  小城教会牧師)

議長室から

宗教改革の原点の日 総会議長 立山忠浩

いよいよ10月31日を迎えます。宗教改革500年を記念する会がすでに終わった教区があれば、10月31日の前の主日に、あるいは11月に予定している教区もあります。日本福音ルーテル教会とカトリック教会との合同企画も11月後半になりますが、やはりこの日を特別な日と感じるのは私だけではないでしょう。
 ではこの500年前のこの日に何が起こったのか。周知のように、修道士であり、ヴィッテンベルク大学の教授であったマルティン・ルターが「95か条の提題」なる文書を貼り出したのです(諸説あるようですが)。歴史的に見れば、この日を契機にして、ヨーロッパを中心に世界を揺るがす大きな変革が起こって行くわけですが、しかしその文書に記された95か条に目を通すならば、意外な気がするのです。特別なことが書いてあるのではなく、難しい内容でもないのです。その中心となっていることは「悔い改め」です。キリスト者にとって悔い改めは生涯続くものであって、その赦しはキリストの十字架によることを力説するのです。
 神学生時代にこの「95か条の提題」の文言を読んだときに、やや拍子抜けしたことを思い起こします。確固たる決意と勇気をもって、カトリック教会に戦いを挑むかのような文書を貼り出したのかと勝手に想像していたからです。ルターの生涯は波乱に満ちたものであり、国会に審問されたときには、「我ここに立つ」と命の危機を顧みないほどの勇ましい面があったことは間違いありませんが、10月31日の宗教改革の始まりの日はそうではなかったのです。宗教改革の原点の日。ルターは、キリスト者にとって当たり前のことを訴えたのです。
 でも、この一見凡庸に聞こえるこのことを決して軽んじてはいけないのです。なぜなら、悔い改めの生涯を続けることは実は難しいからです。悔い改めるためには生涯謙遜でなければならないからです。
 私たちが「95か条の提題」を貼り出すことはないでしょう。しかし教会の看板に何かを掲示するとすれば、自己愛が肥大し、謙虚さがないがしろにされていることに警鐘をならすのです。その罪の現実を打ち破り、赦しを与えるのはキリストの十字架であることを記すのです。
 なすべきことをなし、後は神様に委ねましょう。神様の御心であれば、宗教改革はさらにこの地でも前進することでしょう.

ルーテルこどもキャンプ報告

チャプレン  秋久 潤(小鹿教会、清水教会)
 第19回ルーテルこどもキャンプ「ルターってどいつだ?!」が8月8日~10日にルーテル学院大学・日本ルーテル神学校で行われました。全国から小学5、6年生のキャンパーが、今年は30名集まり、共に3日間を過ごしました。
 初日は台風の接近が懸念されましたが、無事に全員集合し開会礼拝に与りました。主題聖句「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3・24)から、キャンプの2つのテーマである、①ルターが再発見した「恵みのみ」の福音、②ルターがどのように神のことばを伝えたか、が示されました。また、「ルーテル」は「ルター」のこととも教わりました。緊張していたキャンパーもゲームやルターさんの登場で盛り上がり、互いに少しずつ打ち解けてきました。
 2日目は、ルターが「どうやって伝えたか」を体験しました。近所の公園へハイキングに行き、贖宥状の写真を見たり、ドイツ語翻訳、教育改革ジェンガ、「君に届け!神さまの愛のフリスビー」ゲームを行いました。

 最高気温37度の猛暑日でしたが、スタッフらの細やかな配慮によって、誰も体調を崩すことなく過ごせたことに感謝です。学校に戻ってからはソーセージ作りやプレッツェル試食、ボウリングの原型と言われる「ケーゲル」、夜は「ルタークイズ」や「ルター音頭」で盛り上がりました。
 3日目は、キャンプの感想やルターが行ったことを振り返り、お別れパーティと閉会礼拝をしました。6年生には卒業証書と「春の全国ティーンズキャンプ」の招待状が手渡されました。

 内容が濃密なため、限られた時間内でどれだけ理解を深めることができたか気になりましたが、感想文からは「私たちはイエスさまから愛されている家族だ」と感じてくれていることが伝わりました。
 最後になりましたが、キャンパーを送り出してくださった各教会、教区、スタッフのみなさま、そして神さまに感謝いたします。

全国青年バイブルキャンプに参加して

河田礼生(三鷹教会)

今回のバイブルキャンプでは『「キリスト者の自由」を読む』をテキストとして扱ったわけであるが、私はこのテキストを初めて読み、『キリスト者の自由』の内容にも初めて触れた。端的に述べると、このテキストから、また江藤先生のお話から「ルーテルの理念」について学ぶことができた。そしてそれはルターだけでなく、パウロがそしてキリストが私たちに教えてくれていたことであった。
「キリスト教的人間はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、だれにも服さない。キリスト教的人間はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。」
 キリストが私たちの罪を背負ってくれ、キリストの祝福を私たちに与えてくださった。なんて嬉しいことなのだろうと私は思った。そして、キリストによって自由とされた私たちはキリストのようにへりくだって他の人に仕えることができる。
 2日目の午後には、東京老人ホーム特養めぐみ園施設長の高橋睦さんから、実際に「ルーテルの理念」に則って行われている「愛の奉仕」すなわち具体的にどのように他の人に仕えているかを学ぶことができた。 社会福祉の制度が確立していくことそのものが重要なのではなく、必要があるところに行って手を差し伸べることが大切なのだと教えてくれた。これは施設だからというわけではなく、個人が行っていけることである。
 またキャンプ中全体を通して私たち参加者は、「ルーテルの理念」が表された聖書箇所から子どもたちにメッセージをするという設定で、証しを作った。一人一人が黙想し、その箇所を深く考え、その言葉を通してキリストが何を教え、何をしてくださったのかを考えることができた。
 私たちが人に何かするときに全く見返りを求めないのは、難しいかもしれない。でもそんな私たちの罪をわかって、キリストは赦してくれた。だから私は他の人のため、そしてキリストのために仕えるキリストのような人になりたいと願う。
* 8月14~16日、第5回全国青 年バイブルキャンプが、日本 ルーテル神学校にて開催されました。

宗教改革500年に向けて、ルタ―の意義を改めて考える 64

 ルター研究所所長 鈴木浩

2017年の10月になった。1517年の10月にルターが、ヴィッテンベルクという小さな大学町の教会(城教会)の北側ドアに貼り出した1枚のビラが、宗教改革の発端になった。なぜ、その場所か? 理由は簡単で、その場所がヴィッテンベルク大学の「広報掲示板」だったからである。
 それでは、なぜ、その10月31日か? 同じように理由は簡単である。翌日が「全聖徒の日」(古いカトリックの呼び方では「万聖節」)だったからである。有名な聖人には特定の祝日があって(例えば、アウグスティヌスは8月28日)、1年364日、そういう聖人の祝日で満杯だった。そこで、それ以外の聖人(この場合は、亡くなった人)は、すべてこの日が祝日になっていたからである。
 だから、11月1日が「先祖供養」のための「お墓参りの日」になっていたので、その前日に貼り出したのである。前例はいくらもある。同じ年の4月26日には、大学の神学部長だったカールシュタットが、同じようにもっと長い153条の提題を掲げていた。翌日が同じようにお墓参りの日だったからである。
 「わたしたちの主であり、師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言いたもうた時、主は信じる者の全生涯が悔い改めであることを望みたもうたのである」と『95か条』は書き出されていた。この一行目が人々に衝撃を与えた。なぜなら、「悔い改め」(ペニテンティア)という言葉が、その当時は「懺悔のサクラメント」を意味するようになっていたからであった。つまり、「悔い改めよ」というイエスの言葉が、教会が行う「懺悔のサクラメントを行え」と理解されていたからである。
 ルターは、「悔い改め」という言葉の本来の意味(「神に立ち帰る」)を回復しようとしたのである。それは、常に神から離れ、さまよい行く人々に、あの放蕩息子のように、もう一度、神のもとに「立ち帰ろう」という呼びかけであった。

プロジェクト3.11「女性会・被災地訪問」に参加して

東教区女性会 岸田多希子     (田園調布教会)

 仙台駅に降り立った私はかなりの緊張感を覚えておりました。私にとって震災後初めての訪問であること、そして、何の働きもしてこなかった自分への後ろめたさを抱えていたからでもあります。
 初めて目にした震災の爪痕は、大川小学校跡でした。廃墟といえる校舎を前に、ご自身も6年生のお嬢さんを亡くされた、語り部の佐藤さんのお話しは、本当に胸に迫るものでした。同時に、ただ哀しみと怒りをぶつけるだけではなく「なぜあれほどたくさんの子どもたちが命を落とさなければならなかったか」を伝えていこうとする遺族の方々の辛い思いを、涙と共に心に留めました。
 訪問最終日には、日和山公園の高台にも立ちました。当時テレビのニュースで流れた、あの場面。沢山の方々が、押し寄せる津波が町を飲み込むのを、なすすべもなく茫然と見つめていた、あの場所です。目の前に穏やかに広がるその土地は、まだ建物は少ないものの、真新しい道路が整備された、希望溢れる発展途上の造成地に見えました。ここだけでなく、あちらこちらで新しい道路と盛り土をした造成地を目にしました。復興が進んでいると同時に、6年経っているのにまだここまでしか進んでいない、という復興の困難さも感じました。 今回私たちを迎えてくださった石巻と気仙沼の方々、仮設住宅で手仕事に励まれる方々など、本当に皆さんが私たちを歓迎し、温かくもてなしてくださいました。当時の様子を穏やかに語ってくださるその言葉の中にも、私の想像できない深い悲しみと心の傷があることを思います。初めて被災地を訪れる経験をした私ですが、これから私にできることが何かあるのだろうかと考えさせられます。無力な私にできることがあるとすれば、「忘れない」ということでしょうか、そして、この経験を語ること。今、心からの祈りと共に進みたいと思います。

* 2017年6月20日から 22日にかけて、日本福音 ルーテル教会女性会連盟 主催の被災地訪問が、全 国から12名に大学研究者 と現地支援者を加えた総 勢16名で行われました。

ルーテルアワー さあなの部屋 「一緒に帰ろう」伊藤早奈

〈祈り〉
 神様、あなたに与えられている「今」というかけがえのない時の中を、私たちは精一杯生きているでしょうか。なんとなく過ごす時もあれば、たくさんの不平や不満を抱いたまま過ごす日があったりもします。神様、あなたに与えられる全てを、かけがえのないものとして、感謝して生きることができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前を通して、み前にお捧げします。アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれませんでした。」(詩編66・20)

 神様に心を向け、願いごとをするときに、私たちは何か捧げ物をしないといけないのでしょうか?神様に祈る人はたくさんいるから、その中でも目立たないと、祈りは聴いてもらえないのでしょうか?
 いいえ、そのようなことはありません。神様は一人一人に心を傾け、一人一人の祈りを聴いてくださいます。たとえ他の人から見て、取るに足らない思いや祈りであっても、神様に向けられるあなたの思いや祈りは、大切な大切なものだからです。
 親や目上の人に願い出たり、何かを買ってもらいたい時に、いつも以上に親やその目上の人の言うことを聞いたり、肩を揉んだりして気に入られようとすることはありませんか?はたから見ていると「ん?何か魂胆があるのか?」と思われるくらい、必要以上に親やその人に気を遣ってみたり。
 しかし、神様に祈る時はそのような必要はありません。神様が喜ぶような何かをしなくても、あなたの心が神様のもとへ帰る。そのことがもう神様にとっての喜びなのです。そして神様のもとへ、あなたと共にいつもイエス様が一緒に帰ってくださいます。
 神様に祈ること、それはあなたの心がイエス様のとりなしと共に神様へと帰ることです。一生に一度だけの人もおられるかもしれませんが、何度でもいいのです。
毎回、その一回一回を神様はいつも迎えてくださいます。「よく帰ったね。待っていたよ。」と。
 その時もあなたは一人ではありません。いつもイエス様があなたと一緒です。「大丈夫、一緒に帰ろう。」

2017年宗教改革500年 「カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ

石居基夫(日本ルーテル神学校校長)

【本文から】

 わたしたちは神に祈ります。カトリックの者たちとルーテルの者たちがイエス・キリストの福音を共に証しし、神の救いの働きを受け入れるべく人々を招くようになることを。わたしたちは共に奉仕の務めに立って、特に貧しい人々のために、人間の尊厳と権利とを高め、正義のために働き、あらゆる形の暴力を斥けることにおいて共に奉仕に当たることができるよう、霊の導きと勇気と力とを神に祈ります。尊厳、正義、平和、和解を切に求めているすべての人々にわたしたちが近づくようにと、神は呼び掛けておられます。今は特に、多くの国々や社会で、またキリストにある数え切れないほどの姉妹や兄弟たちに影響を及ぼしている暴力や過激主義を終わらせるよう、わたしたちは声を挙げねばなりません。

【学び】

 この声明は、単にこの二つの教会の和解と一致ということに終始せず、むしろ、それが両教会が共同・協働して宣教の責任を担うように決意し、また両教会に属している人々に強く呼びかけている。
 中心はキリストの福音を分かち合うこと。しかし、信仰への招きだけを語るのではなく、この世界に神のみこころである正義・公平・平和を実現していく務めを重く受け止め、その責任を担っていくべきことを語っている。特に、現代世界という文脈をしっかりと見つめ、今も多くの人々が差別や争いや暴力によって人間として生きる尊厳を奪われていることを課題としていることがわかる。
 声明は、そういういのちの尊厳と正義、平和と和解を求めている人々に「近づく」ことへと神が呼びかけておられると招いている。「近づくこと」は、具体的に問題に関わり、人々の苦しみに触れるということだ。それは、この招きに応えて近づくものたちに、傷つき、痛み、哀しみや怒りをもたらすことでもある。それでも、そうやって共に生きることを神が求めている。福音を限られた人々の中にとどめるのではなく、貧しい人や苦しみの中にある一人ひとりへと届けること、逆にいえば、そうした人々のところに出ていき、受け入れ、招くことを両教会、いやキリストの教会の務めとして深く見定め、信仰者を押し出しているのだ。
 ことにも、難民受け入れの問題に揺れる伝統的キリスト教世界である欧米社会にとって、この語りかけがなされた意味は大きい。現状はといえば、いわゆるポピュリズムの大きな流れは一定の限られた人々の利益にだけ結びついてる保護主義・排他主義が力を得ているようだ。あのとき、多くの群衆が「イエスを十字架につけよ」と叫び出したことを思い起させる。煽動する者たちがあったに違いないが、人間の愚かしさはいつの世も変わらない。けれども、その大きな流れが、たとえ人からあらゆる尊厳を奪い取っていこうとも神がそのいのちを愛される。それを、主の十字架の出来事が示している。だからこそ、イエスを主と仰ぐ者たちは共にこのキリストを証しするように招かれているのだ。

ぶどうの木につながって「えきゅぷろ」報告

 谷口健太郎(市ヶ谷教会)
8月19日、カトリック成城教会において、カトリック教会、日本福音ルーテル教会、日本基督教団の青年有志から成るエキュメニカルプロジェクト実行委員会の主催で、「えきゅぷろ!~教派をこえた青年の集い~」が開催された。
 ここ数年、教派を超えた青年の交流が盛んなことを背景に、「宗教改革500年に何か一緒にやりたいね」と、ある種軽いノリで始まったこの企画。気が付けば、当日の参加者は20~30代の青年を中心に、120名を越えていた。
 福島一基神父(カトリック千葉寺教会・西千葉教会)、浅野直樹牧師(市ヶ谷教会)、堀川樹牧師(日本基督教団亀戸教会)を司式者としてお招きして、各教派の特徴を融合した合同礼拝が守られた。式文から音楽まで全てを企画することは大きなチャレンジであった。様々な礼拝に出席し、教義について学び、何が一緒にできるのか何度も議論を重ねた。
 特に難題だったのが聖餐の扱い。礼拝の中では難しいとの結論に至り、その代わりとして、聖餐の恵みを分かち合える日が来ることを祈りつつ、教会の原点である食卓を囲むスタイルで、パンの分かち合いプログラムを行った。
 トークセッションでは、司式者3名に原敬子シスター(援助修道会)が加わり、宗教改革とエキュメニズム、恋愛・結婚・日本社会とキリスト者をテーマに本音トークを展開。ある登壇者はこう語る。「宗教改革の当時、ルターは34歳だった。教会関係者は、ついに若者がやってしまったと思ったことだろう。しかし、彼の信仰は真っ直ぐで本物だった。今回のイベントにも同じものを感じる。君たちはやってしまった。」
 各教派に枝分かれした我々だが、主のもとでは同じぶどうの木から命を与えられ、ぶどうの木につながる存在である。我々に与えられた使命があるとすれば、「えきゅぷろ!」の輪を、教派そして時代を越えて広げていくことなのだろう。宗教改革600年のその時に向かって、今回関わった青年一人ひとりが、与えられたぶどうの実を、愛をもって育んでいくことを祈ってやまない。

献堂のよろこび

 日吉教会 斎藤忠碩
 日吉教会は、神さまからの祝福をいただき、1962年からこの日吉の地で宣教の歩みを始めました。そして今日まで宣教55年の歳月を歩んでまいりました。
 日吉教会の旧礼拝堂は、東京・中野区鷺宮にあった神学校の礼拝堂を1969年に移築したもので、建物自体は1935年(昭和10年)に建築されたものです。また、教会のステンドグラスは1907年(明治40年)に建築されていた米国ネブラスカ州フリーモントファーストルーテル教会で使用されていたものであり、1953年(昭和28年)の改築の際、取り外され、日本ルーテル神学校に寄贈され、神学校の鷺宮から三鷹への移転に伴い、日吉教会に寄贈されたものです。
 この間教会員より献金が献げられ、教会独自で隣接の土地の購入が出来、駐車場スペースを確保出来ました。大きな喜びでした。このように多くの恵みを戴いて、福音宣教のわざに励んでまいりました。
 そして、今日まで多くの方々がイエス・キリストの福音に触れ、キリストに繋がる者となり教会は成長してまいりました。皆様の祈りとお支えに感謝いたします。
 しかし、先の東日本大震災により耐震診断をしたところ、耐震の数値から見て教会・牧師館は危険でもあり、今後建て替えることも含めて検討した方がよいという診断結果が出ました。そのような時、教会員より教会建築のためにと多額の献金が献げられました。ここに教会員の力を結集して新しい日吉教会が誕生することになりました。これまで旧礼拝堂で使用してきました聖卓・説教台・聖書台・ステンドグラスはこれからも使用していきます。
 日吉教会の主題としています、イエス・キリストにある「やすらぎの泉をとなり人へ」を伝えていく教会を目指してまいります。皆さまのお祈りとお支えをお願いします。

JELAカンボジア・ワークキャンプ2018

 2007年に派遣開始以来これまで4回、毎回6~8名のボランティアを派遣し、学校建築関連の奉仕を行いました。カンボジアの歴史、文化や人々の活動にも触れながら、ボランティア活動と現地の人々との交流などを行います。

◎日程:2018年2月14日(木)~24日(土)11日間 
◎対象:キャンプ実施時点で18歳以上の健康な方(高校生不可)
◎募集人数:5名~10名程度(人数調整のため選考があります)
◎内容:現地の団体の活動支援と交流、学校校舎修復や設備設置、キリング・  フィールド等の歴史的に著名な土地や博物館訪問など。
◎参加費:13万円
 *海外旅行傷害保険、パスポート申請の費用、説明会会場(JELA)と出発・帰国時の集合場所(成田空港)から居住地までの交通費や、前泊・後泊する場合の宿泊費用については、上記の参加費とは別に全額個人負担となります。
◎申込方法:申込書に必要事項を記入の上、JELAカンボジア・ワークキャ   ンプ係まで、
 メール:(jela@jela.or.jp)、またはFAX:(03-3447-1523)にてお送りください。
◎締切:11月30日(木)必着(12月4日までに参加の可否をお知らせします)
 参加者説明会:2017年12月9日(土)13:00~17:00
 場所はJELAミッションセンター2F(東京都渋谷区恵比寿1-20-26)

※参加者のご都合により日程等を変更する場合があります。
※この他、注意事項などの詳細は、以下のURLからご確認ください。
 http://http://jelanews.blogspot.jp/2017/09/2018.html

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