「人間イエスの十字架に倣う」
「昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。」
「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」(マルコによる福音書15・33~34、37 聖書協会共同訳)
教会の暦は主イエスの十字架を覚える四旬節に入ります。十字架のことは誰でもよく知っている出来事です。確かにそうです。私たちの罪のために十字架に架かってくださったことをみんな知っています。ですから、神の子キリストだからこそなし得てくださったことに思いをはせ、私たちはみんなで感謝しなければなりません。ただ私はここでは「神の子キリスト」と言うよりも「人間イエス」に目を注ぎたいのです。
十字架のことは、それぞれの福音書で異なった描き方をしていることは周知のことですが、人間イエスの視点を大切にしたのはマルコによる福音書です。それを最も適切に表現した出来事が「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という十字架での絶叫です。それとは対照的に、最も感謝の思いに浸れるのは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」というルカによる福音書の言葉です。十字架の苦しみの絶頂にあっても、自分を十字架につけた者たちのことをおもんぱかった姿は私たちの心を打ちます。それに比べると、この叫びの言葉は耳を閉じたくなるのです。詩編22編の言葉だと言われますが、神への呪いの言葉にどうしてもイエスの不信仰を見る思いがするからです。
でも私は何回もこの言葉に向き合う中で、自分の読み方が浅はかであることに気づかされていきました。確かに苦痛に耐えきれず、死を前にした絶望の叫びは神への信仰を失ったかのように聞こえます。でもその呪いの声は「わが神、わが神」という言葉からも分かるように、神に向けられたのでした。本当に信仰を失ったのであれば、「わが神、わが神」とは呼ばないからです。だから信仰者イエスの叫びだったように私には思えるのです。
このことは私たちも同じではないでしょうか。不信仰な呪いの言葉を吐くことがある。神の沈黙に絶望し、嘆きたくなることもあります。でもその思いを神に向けることが重要ではないかと学ぶのです。それは深い信頼がなければ起こりません。人間イエスの叫びは、私たちが倣うべき真の信仰者の姿だったのです。
イエスは絶叫の後に「息を引き取られた」とも記されています。何げない言葉です。しかしある時、「息を引き取る」とは、いったい誰が息を引き取ったのだろうかという疑問が頭をもたげました。死んだイエスが自分で引き取ったはずがありません。私たちは誰かの死を「息を引き取った」という言い方をしながら、「では誰がその息を引き取ったのか」ということを問うことなく用いていることに気づいたのです。
福音書を確かめました。いずれの福音書も「イエスは…息を引き取られた」と訳されていますが、原語は必ずしも同じではありません。ただ「息を離した」とか「息を引き渡した」という意味を持つことでは共通しています。ですから「神に息を引き渡した」と解釈して訳すことが良いように私には思えたのです。そうすると見えて来ることがあります。
創世記の人の誕生の物語では、人の命は「神の命の息を吹き込まれる」(2・7)ことで始まったと教えています。クリスマスの物語もそうです。イエスは神の霊、つまり神の息を吹き込まれることでマリアの胎に命を授かりました。その後のイエスの生涯も神の息の導きによるものでした。そして十字架で生涯を閉じる時には、その息を神に引き渡されたのです。その息を神が確かに引き取ってくださることで、復活という新しい命をもたらしてくださったのです。これがイエスの証しされた「人の死」でした。
人間イエスはご自身の十字架を忍び、息絶えるまでのありのままの姿をお示しになることで、私たちの死もこれと同じであることを教えてくださったのです。ですから、自分の人生が神の息を注がれることで始まったことを忘れず、人生を精いっぱい生きた後は、預かった息を感謝を込めて神にお返しするのです。イエスに倣う人生に神の祝福をお祈りいたします。
十字架上のキリスト(フランシスコ・デ・スルバラン・1627年)