一人一人の魂の名を呼ばれる方に向き直って
ヨハネによる福音書20章11節〜18節
イースターおめでとうございます。3月31日の復活祭の日曜日にはお一人お一人の方がいろいろなかたちで復活祭の日曜日を過ごされたと思います。教会で礼拝を守りその後、愛餐会を楽しまれた方、礼拝の中で受洗された方、今年はどうしても教会に行くことができず一人で祈っておられた方などいろいろな方がおられたと思います。毎年迎えるイースターですが、この日を迎える私たちの思いや迎え方は毎年違います。
私もイースターのことを思い出してみると教会学校に通っていた私はイースターの朝、近くの公園で行われる卵探しがとても楽しみでした。やがて教会学校の先生になってから卵を隠す側になったとき、生徒だった自分がどんなにわくわくして卵を探していたかを思い出しながら隠し、「ヨーイドン」のかけ声で楽しそうに走り出す子どもたちの笑顔を見ていました。その反面、隠した卵を狙うカラスとも勝負していました。
大人と言われる歳になってからも毎年おとずれるイースターという季節はいろいろな思いを運んで来てくれたように思います。
このように毎年毎年やって来るイースターの日ですが毎年毎年イエス様が復活されるわけではありません。イエス様が十字架に掛かられ息絶えられ三日目に復活されたのは一度だけです。しかし、そのイエス様の復活、そして命への道の意味を受け取る私たちの心や状態は変わります。幼い頃の自分にとってのイースター、昨年の自分にとってのイースター…、変わって行く自分を責める必要はありません。私たち一人一人は成長し変わっていくものです。しかしイエス様の復活はただ一度だけの真実なのです。
今、与えられました聖書の箇所はよくイースター礼拝でも読まれる箇所です。この箇所を読んで思い出した一つの思い出があります。それは私が幼い頃、母方の祖母の家で毎年、親戚一同が集まり行われた家庭礼拝のことです。礼拝は聖書朗読や難しい(そう感じていました)お話、賛美,祈祷が行われました。賛美はその場で賛美歌の番号が決められておじたちかおばたちの誰かが初めの音を出すと皆が一緒に自分のパートを歌い出しそれはそれは素敵なハーモニーを伴奏も無しで歌うのでした。少し古い例えですが混声のダークダックスでした。その美しいハーモニー以上に私が好きだったのは祖母のお祈りでした。祖母が祈っている内容はまだ私には難しかったのですが祖母は必ず家族一人一人の名前をあげて祈りました6人いた自分の子どもたちの名前はもちろん、その配偶者と子どもたちの名前まであげて祈るのです。今思うととても大人数でした。長い長いお祈りの中その場にいない父や兄たち姉の名前そして次に自分の名前が呼ばれます。どんなに難しい長いお祈りでも自分の名前だけはわかります。それが今、この聖書の箇所を読んだときに思い出されました。
今日、復活されたイエス様へと心を向けます。神様であるイエス様も同じではないでしょうか。家族である全ての私たち一人一人の魂の名前をいつも変わることなく呼んでおられます。ただ、その声を神様であるイエス様からの声であることを受け止め,今のそのままの自分で応えること、すなわちイエス様へ向き直って返事をすることが今の自分を新たに生きる、復活するという意味になるのではないでしょうか。
自分の今を神様であるイエス様の価値観に委ねるとでも言うのでしょうか。神様であるイエス様が全ての一人一人を呼ばれておられます。なぜ、私なんかを呼んでくださるのでしょうか。それはただ私たち一人一人を必要とされているからです。その声に応えるのは私たち一人一人の自由です。
全ての一人一人がイエス様から召され必要とされています。こんな私じゃダメだわとかもっと勉強してからとか理由をつけて神様であるイエス様の方へ向き直れないのは自分のこだわりや気持ちだけなのです。
神様であるイエス様は全ての一人一人の魂の名前を呼ばれ待っておられます。
日本福音ルーテル教会東教区付牧師 伊藤早奈