「おめでとう」と交わし合う一年を
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
ルカによる福音書 1章26〜28節
あけまして、おめでとうございます。新年もよろしくお願い致します。また日本の風習に従うならば、喪中の中お正月をお迎えになった方もいらっしゃることでしょう。主の慰めをお祈り申し上げます。
新年を迎え、ご家族、ご近所や知人との間で「おめでとうございます」という挨拶を交わされたことでしょう。教会も同じです。元旦礼拝で、あるいは新年の初めての礼拝で互いに「おめでとうございます」という言葉を交換されたことでしょう。教会の中でも外でも日本に暮らすキリスト者は、区別することなくこの挨拶の言葉を交わしますが、しかしそれには違いがあるのではないかと思います。
すでに教会の暦はクリスマスを迎えていますが、主イエスの誕生の前には様々な事が起こりました。その一つはマリアへの受胎告知です。天使ガブリエルはマリアに「おめでとう」と告げました。それはマリアにとってはとんでもない事で、おめでたくもないものでした。でも天使はそれを「おめでとう」と告げたのです。もっとも、この日本語訳は適切ではなく、「幸いあれ」という程度の日常的な挨拶であったと指摘する神学者もいるようです。そうなのかも知れませんが、この言葉の次には「恵まれた方」と言っていますので、いずれにせよ「おめでたさ」を伝える挨拶であったことには変りありません。「おめでとう」という挨拶は、マリアにはやっかいで、余計なものを背負わされたという思いがあったでしょうし、よりによってどうして「私が?」というやるせなさを覚えたことでしょう。
では、どうして恵まれた者なのでしょうか。その理由は「主があなたと共におられる」からなのです。
私は、「主があなたと共におられる」という言葉ほど重要な言葉はないと思います。天使の告げたこの言葉が耳にした人の中で結実し、「本当にそうだ」と実感した時にこの言葉は力を持つのです。その人を励まし、希望を与え、喜びと感謝をもって生きる力を与えて行くのです。
マリアが幸いだったことは、お腹の中でみ子の成長を実感できたことでした。「主があなたと共におられる」という言葉が結実していたのです。初めの不安と動揺は次第に小さくなり、「おめでとう」と告げられた言葉を実感していったのです。
新年を迎えた私たちにもマリアと同じように、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という祝福の言葉が語られています。ただ、私たちのお腹に神の子が宿ったのではありませんので、この言葉を実感することができません。でも幸いなことに、礼拝の際に与る聖餐がこの働きを担うのです。パンとぶどう酒にイエス・キリストがまことに現臨して下さっているのですから、それをいただくことによって、私たちもこの言葉を実感するのです。
「主があなたと共におられる」という祝福は、マタイによる福音書では「神は我々と共におられる」と記されています。祝福はマリアだけに向かうのではないのです。すべての人に語られています。ですから、教会は主のご臨在を互いが確認し合う群れであり、それを第一に礼拝で体験していると言えるのでしょう。
この一年間も礼拝において牧師の説教が語られ、讃美と祈りが唱えられることでしょう。諸集会で聖書が読まれることでしょう。家庭集会や病床訪問においても同様です。主のご臨在をみんなが実感でき、「おめでとう」という挨拶の言葉がいつも喜びとなり、生きる力となり、宣教の励みとなるような皆さんの一年をお祈りいたします。
日本福音ルーテル東京池袋教会 立山忠浩