隠れなき光
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。ヨハネによる福音書1章9節
人間の視覚は光に依存している。光がなければ、我々は見ることができない。我々が自分で見ていると思い込んでいるものは、それ自体が光を反射し、我々の網膜に像を映さなければ見ることができないのである。見えないものは、我々が視覚的に見ていないというだけであり、それが存在しないということではない。存在するということは、現れているということではない。しかし、人間は現れていることだけがすべてであると考えてしまう。我々が感覚によって認識する世界は狭い世界である。
反対に、信仰によって認識する世界は広い世界である。信仰によってこそ、神の世界、神の支配、神の国を見るのである。信仰によってみる世界が真理である。ヨハネが言う「まことの光」で見る世界である。
この光は「まことの」と言われている。真理と同根の形容詞である。真理がア-レーテイア「隠れなきこと」であるから、「まことの光」とは隠れなき光、あるいは隠さない光ということになる。この光自体は「隠れなく」光り、照らすものを「隠さない」光である 。自ら隠れなくあり、自らと関わる存在を隠さないのである。その光自体がすべての人を照らすということは、誰もこの光から逃れることができないということである。隠れなき光に照らされるならば、隠れなくあらざるを得ない世界となる。これがヨハネが見ている世界、信仰の世界である。
ところが、我々人間の世界は常に隠し、見過ごしてしまう世界である。人間の恣意によって真実は隠され、都合の良いものだけが提示される。こうして、人間は自らの罪に従った世界を作りだしてしまうのである。そうであってもなお、真理は隠れなくあるのだが。
まことの光に照らされる存在は、隠れることができないだけでなく、見過ごすこともできない。互いに、 裸の自分をさらし合っている世界が、まことの光が照らす世界である。だからこそ、人間はまことの光を嫌うのである。他人の隠していることを見たいと願うが、自分の隠していることは見せたくない。自分だけは隠れていたい。それが人間の罪の姿である。
そのように罪の中に身を潜めている存在であろうとも、来たりて照らすのが「隠れなき光」、「まことの光」なのである。この光こそ、隠れなく生きてくださったイエス・キリストである。キリストは、十字架の死に至るまで、ご自身を隠されなかった。捕らえようとするユダと捕縛者たちにご自身を現された。十字架の上で、すべてをさらして生き給うた。パウロは弱さから十字架に架けられたキリスト(2コリント13・4)を語ってもいる。弱さもありのままに見せ給うお方がキリストである。 このお方に照らされるとき、我々は弱さも、恥と思えることも、すべてをさらしてもなお、神の前に生きる者とされる。キリストの光に照らされることを受け入れる存在だけがそのように生きるのだ。受け入れない者は、闇に逃げてしまう。そして、自らを神の世界の外に追い出してしまうのである。そこに選びがある。照らされたくないと、隠れることを選ぶ者が自らの選びによって、自らを選ばれざる者としてしまう。隠れることを選ばず、神が照らすままに隠れなくあることを受け入れる者は、選ばずに選ばれている。光を反映する存在となり、光と一体となっているのである。
我々キリスト者と呼ばれている者は、真実に光を反映しているか否かを常に問われている。何故なら、まことの光は常に我らを照らし続けているからである。「わたしの十字架の言を聞いているのか。」とキリストは問う。「わたしの光を受け入れているのか」と問う。自らを省み、来たり給う光を、喜びをもって受け取ろう、「来たりませ御子よ、隠れなき光よ、まことの光よ」と歌いつつ。あなたのクリスマスが、隠れなき光に照らされたまことのクリスマスとなりますように。
日本福音ルーテルなごや希望教会牧師 末竹十大