イエスは傍らに
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(ルカによる福音書24・13〜15、28〜35)
イエスさまの復活後、それを信じることのできない二人の弟子がエマオの村へ向かって歩いています。
彼らはもともと、救い主イエスさまに「イスラエルを解放してくださる」と期待していましたが、その期待は見事に外れ、ご自身は十字架であっけなく死んでしまい、その上、葬ったはずの墓にも見当たらなかったというのです。
この時の二人のことを想像するに、「これまで信じてきた物が失われてしまい、これから一体何を信じて生きて行けばいいのだろうか」と深い失望と戸惑いの中にあったに違いありません。
とはいえ、この弟子たちは、あらかじめ知らされていた復活を信じられないので す か ら、不信仰者といえば、そういえるのかもしれません。しかし、神さまの慰めは人間のありようを超えてもたらされます。今日の箇所でも、イエスさまはこの弟子たちの傍らに共に歩み、ご自分について聖書全体にわたり説明をされました。それによって二人の弟子は「心が燃えていた」のです。
わたし自身、かつて献身する以前に、自らの力ではどうにも抗うことの出来ない重荷を背負う中で、そこから何とか脱しようともがいていた時、いくらもがいても出口が見えることはありませんでした。むしろ、もがくほどかえって不安は増幅し、深みにはまっていく感覚にすら陥りました。
けれどもそのような時に光となったのは、いくつかの聖書の言葉でした。といっても、わたしに揺るぎない信仰があった、と胸を張るほどの自信があるわけはありません。むしろ、弟子たちと同じように、完全な信仰など持ち合わせてはいなかったのです。ですから、聖書の言葉は救いを確信させる言葉というよりも、あくまで手の届かないところにある小さな希望でした。例えて言うならば、トンネルの暗闇の中で遠くに見える小さい光のようなものにすぎなかったかもしれません。
けれどもその光があることこそが、沈んだ心を湧き立たせ、トンネルの中を歩む力となりました。状況は何も変わりませんが、光があることの大切さと、その光を見つめることの恵みを思いました。
後になってそのことを思い返したとき、今日の二人の弟子と自分自身が重なる思いがしました。復活のイエスさまが二人の弟子の傍らに伴って聖書を説明したように、あの時、わたしの傍らにも伴って、聖書の言葉を通して希望を見せようと働きかけておられたのでしょう。
イエスさまはその後、弟子たちに(あの「過越の食事」を思い出させるように)パンを裂いて渡されると、「二人の目が開け、イエスだと分かった」というのです。復活の主をはっきりと認識し、受け止めたのです。
イエスさまが十字架の死から復活された、という出来事は、自らの力でどうしようもない失望の中にある弟子たちに、新しい希望の光が現された出来事です。
イエスさまという方は、「お先真っ暗だ」と失望し何の希望を見出せないでいた弟子たちの傍らでこそ共に歩み、ご自身を現されました。ご自身は決して死んで滅びたのではなくて、そこから甦って永遠の命を生きるのだと示されました。それによって、弟子たちに希望を取り戻させたのです。この復活の主との出会いは彼らにとって、この上ない大きな慰めであり、喜びであったに違いありません。
日本福音ルーテル博多教会・福岡西教会 牧師 池谷考史