1. HOME
  2. ブログ
  3. バイブルエッセイ
  4. 死と再生のドラマ

刊行物

BLOG

バイブルエッセイ

死と再生のドラマ

「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」 (ルカによる福音書 十五章三十二節))

『聖書』と言う本に魅せられて、もうかれこれ五十年以上も読み続けているが、未だに厭きないし、また未知の部分が余りにも多すぎて、神様からあと百年の命を与えられて読み続けたとしても、なお「読み足りない」だろうと思う。「聖書」は実に不思議な本である。

旧約と新約を含む「聖書」の主題を一言で表現すれば、それは「死と再生」であると思う。聖書巻頭の書「創世記」は、「初めに神は天と地を創造された」と言う言葉で始まっているが、神が天地を創造する前の宇宙は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。これはつまり、「無」の世界を意味するのだろう。その無の世界に「光あれ」と光を創造した神は次々に諸々の物を創造されるが、これは「無から有の創造」である。つまり「無」の意味するところは「死」であり、「有」の意味するところは「命」である。神は「無という死の世界」から、「有という命の世界」を創造されたのである。

アブラハムはどうであろうか。彼らには「子」を設けることができなかった。妻のサラは「不妊」であり、既に「年老いていた」。つまり、彼らが死ねば、彼らの命を繋ぐものは誰もいなくなる。その彼らが「子孫」が与えられる約束を聞くのである。アブラハムの人生は波乱に満ちたものであったが、約束通り「子(孫)」を与えられたのである。これもまた、子がいないという象徴的な意味での「死」から、子孫を与えられるという「再生」の物語なのである。

モーセの出エジプトも然りである。奴隷状態である民とは、いわば「死せる民」であり、そこから脱出し荒野の放浪の後、約束の地に辿りつく過程は、まさに「死せる民」から「生ける民」への「死と再生」の物語である。ダビデも取り返しのつかない大きな罪を犯して一度は人間的な死を経験するが、悔い改めることによって、新しい人間として生まれ変わる(再生)のである。

このように、聖書の物語は「死と再生」を語る。新約聖書の「放蕩息子のたとえ」でも示されているように、弟息子は放蕩により「死んでいたのに生き返った」と言う、死と再生のテーマが明示されている。聖書は、人間の死を罪の結果としているが、それは原初の人間アダムとエバの物語に示されているとおりである。アダムとエバは、罪を犯すことによって「死ぬべき存在」として、エデンの園の外で生きる者となったのである。

死と再生の物語のクライマックスは、イエスの十字架と復活である。イエスの十字架はアダムの罪責を継承する私たちの罪を赦免することであると共に、実際日々に犯し得る罪をも赦すものである。私たちはイエスの十字架の死によって得られた罪の赦しを受けている者であり、これはまさに「罪によって死んでいた者」から、「赦されて義に生きる者」にされたということである。これは、私たちが「罪に死に、義に生きる」という、死と再生を経験することなのである。

イエスは十字架で死ぬが、三日目に復活する。まさに、死と再生のクライマックスを迎える。陰府にまで下るがーそしてそこからは誰一人生還することは不可能であるにもかかわらずーイエスは生還するのである。全能の神の力に「不可能はない」。イエスの復活は、私たちに「死は終わりではない」ことを告げている。私たちはこの地上にあっては必ず死ぬが、それは復活するために死ぬのである。復活のために死ぬのであれば、死は恐怖でもなく、絶望でもない。死の苦しみは誰も免れないだろうが、復活(再生)のための死であるゆえに、希望を持って死ぬことができるのである。

毎年「四旬節」を経て「復活祭」が訪れる。私たちはこの時期、イエス・キリストの十字架と復活に思いをはせながら、自分の人生の終わりを希望を持って見つめつつ過ごすのである。死のその先には、復活と言う命があるのだ!

『聖書』は、あらゆる「死」の状態にあるものに「命」を与え、再生させる『命の書』なのである

日本福音ルーテル鶴ケ谷教会・仙台教会牧師 藤井邦昭

関連記事