主にある平和
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15・9~12)
日本福音ルーテル教会は宣教百年を期に8月の第1日曜日を「平和主日」と定め、特に平和を祈り求める時としました。
さて、この日のために与えられた日課には「わたしの愛にとどまりなさい」、「わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という二つの命令が記されています。内容は同じです。平和を造り出すにはこれしかない、というのです。
「隣人愛」についてイエスさまは教えてくださっているわけですけれど、戦争という歴史を持つ私たちは「隣人愛」という言葉に奇妙な違和感を覚えます。同じ宗教、同じ民族の人々のみを隣人として愛する時、そこには必ず異邦人を軽蔑し憎むという結果が出てくるからです。またその結果として今度はその人たちから憎まれるという悪循環が生まれることを私たちはよく知っています。私たちが腹を立てる、その人から、私たちは同じように憎しみを受けている者でもあるのです。イエスさまの時代もそうでした。サマリア人の譬はそのよい例だと思います。
その悪循環を断ち切ったのがイエスさまの愛でした。「自分が愛したい人を愛する」、 「自分を愛してくれる人を愛する」のではなく、「自分を迫害する者」、「自分を十字架につける者」、「最後まで強情に自分に反対する人」に対する愛を、イエスさまは示してくださったのです。イエスさまが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と自分を殺す者のために祈られた時、新しい愛が示されたのです。
このような素晴らしい愛を教えられているにも関わらず、この世界が平和であった時代はありません。世界という大きな視点だけなく、私たちの身近には目を覆いたくなるような出来事がひっきりなしに起こっています。
しかし、私たちは今日、イエスさまの命令を改めて受けているのです。この時に私たちはこの命令を心の底からごまかさないで受け取りたいと思います。
私たちは愛について教えられていながら、 真剣にそれを実行していません。世界の人々のために祈っても、 「あの人は別だ」、「あの事は別だ」と考えています。本気でこの命令を受け取り、本気で今私を憎んでいる人、私と遠い人、家族であれ、近所の人であれ、職場の人間であれ、何よりも教会の人、それらの人たちを「赦されているが故に赦す」、そのような歩みをもう一度取り戻したいと思うのです。自分の意見に強情に反対する人と忍耐強く対話をする者となりたいのです。世界の痛み、被造物の呻きの大きさからすれば、あまりにも小さな一歩かもしれませんけれど、ここから始めたいと思うのです。
私は、その意味では教会という群れは、イエスさまからのチャレンジの中にあると信じています。教会とは何かということを聖書は明瞭に説明しています。「洗礼によりキリスト・イエスに結ばれ、 神の子とされた群れであり、もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も、自由な身分の者もなく、男も女もありません。キリスト・イエスにおいて一つなのです」(ガラテヤ3・26~29より)。 教会はイデオロギー、思想、民族、家族において一致するのではなく、キリスト・イエスに結びついていることにおいて一つであること、それが教会の一致なのです。
主の祈りはキリスト教の小さな学校です。「われらに罪をおかす者を われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と心から祈るところに教会が生まれるのです。
もちろん、それでもなお、世界の問題は尽きません。私たちもまた、「祈りしかなさない」と批判されることもしばしばです。しかし私たちの一人でも多くの方に福音をのべ伝えるという働きを、大海の一滴にすぎないと言うのをやめましょう。
教会に来られる様々な方々と、いかにして共に歩むことができるかということに心砕き祈ること、そのような本当に身近な小さな一歩にイエスさまは期待してくださっているのです。イエスさまはおっしゃいます。「平和を造り出す人々は幸いである」(マタイ5・9より)。
大阪教会牧師 滝田浩之