すべてをご存じの方に
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ福音書6・31〜33)
イエスさまが山上で語られた説教です。ここでイエスさまは、何度も「思い悩むな」と言われます。イエスさまの説教を聞いていたのは弟子たちであり、また群衆でした。彼らは、みな思い悩む者たちです。日々の生活の中で、何を食べ、何を飲み、何を着ようか、と思い悩む市井の人々です。当時イエスさまの福音に喜んで耳を傾けた人々は、貧しく、権力者から虐げられ、罪人として社会の隅に追いやられていた人たちでしたから、思い悩みに事欠くことはありませんでした。人々は、本当に身も心も思い悩んでいたのです。
そのように思い悩める人々を前にして、イエスさまは叱責されたわけではありません。自分の思い悩みにとらわれて視線が定まっていない人々に対して、空の鳥を見よ!野の花を見よ!神が創られたありとあらゆる被造物を見よ!と促されたのです。彼らは人間のように種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないのに、神は美しく装い養ってくださるではないか!と。
この御言葉によって、イエスさまと一緒に山上までやって来た人々はハタと気がつくわけです。足元で咲き誇っている名も無い草花に、頭上でさえずっている鳥たちの声に。彼らの美しさと、たくましさに。神から与えられた命を懸命に使って、はばたき、咲き誇っている彼らに。
私も最近山登りをするようになって、この御言葉が実感できるようになりました。神が創られた素晴らしい被造物にあふれた山に登っていると、自分が悩んでいたことは実はたいしたことではなかった…と、気付かされることがあります。然り、思い悩みをことさらに大きくしていたのは、他ならぬ自分自身だったのだ、と。
とはいえ、私たちの思い悩みには思いがけず外から降り掛かってくる出来事もあります。自分の願いに反して押し寄せてくる社会的な状況もあります。はからずもそれらに遭遇してしまった時に、私たちはまた思い悩むことになります。私の目下の思い悩みは、先日、政権与党の強引なやり方によって成立してしまった「共謀罪」です。人の内心にまで踏み込もうとするあの法案は、個人の尊厳を奪うだけでなく、人と人との信頼関係も損なってしまうでしょう。今でさえ自分の意思を押し殺して相手の顔色を伺う忖度がまかり通っているのに、もっと物が言えない社会が到来してしまうのではないかと危惧します。
イエスさまは、このような思い悩みまでを一笑に付されたのでしょうか?そんなことはないでしょう。当時ユダヤ社会の権力者であった祭司長、長老、ファリサイ派たちと常に激論を交わし、彼らによって抑圧されていた人々のために福音を語られたイエスさまでした。人々の思い悩みに耳を傾け、彼らが負っている悲しみや苦しみをつぶさになめられ、最後にはご自身の身に担われたイエスさまでした。だから、イエスさまは言われたのです。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と。あなたがたの思い悩みもその解決のために必要なものも、神はすべてご存じなのだ!だからまず、神の御言葉に耳を傾けなさい!神のご支配がこの世に広がり、神の義がこの世に実現するように祈り求めなさい!そうすれば、すべてのものはみな与えられる!と。
私たちは、思い悩みに押しつぶされてしまってはなりません。なぜなら、私たちの思い悩みのすべてを神はご存じで、私たちに必要なすべてのものを神は与えてくださるからです。だとすれば、私たちはむしろ大いに思い悩みましょう。自分にも、他者にも、この社会、この国、この世界に対して思い悩みましょう。そして、それらの思い悩みを分かち合うのです。自分の内に隠すことなく、他人に忖度することもなく、共に思い悩みを分かち合うのです。そうして、それらすべての思い悩みを神に伝える。私たちに必要なすべてのことをご存じの神に伝え、訴え、祈りましょう。イエス・キリストの御名によって。
日本福音ルーテル札幌教会・恵み野教会牧師 日笠山吉之