メルマガ802
(マルコによる福音書15章42〜47節)
勇気を出したい、と思ったことが何度もあります。学校で理由なく先生に責められている友人を見た時。わたし自身が、意地悪なことをされた時。不当な扱いを受けている人がいた時。様々な場面で、「ちょっと待って!」と勇気を出して叫びたいような経験をしてきました。同調圧力が強く、空気を読めることが良しとされる中、それでも声をあげて行動したい。でもできない。そんなもどかしさを感じ、「一歩踏み出す、勇気が出せるように」と祈ることがありました。
しかし、この聖句に出会い、ハッと気づかされました。勇気は、出したい時に出せるものではありません。勇気が出せるように、と祈ってきましたが、違うのかもしれない、と。
イエス様が十字架に処せられ、その遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフという人がいました。このヨセフはイエス様を信じていると周囲の人には打ち明けていない人でした。しかし、「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出」たのです。勇気は、人間が自由自在に操れるものではありません。わたしたちは勇気を出したいときに出せないのです。このヨセフは神様から勇気を与えられたからこそ、その勇気を用いて死刑囚として処せられたイエス様の遺体を引き取る申し出ができたのです。
教会暦はペンテコステを迎えましたが、聖霊を与えられるまで閉じこもっていた弟子たちも然り。神様から与えられた勇気を用いたからこそ教会の歩みが始まりました。わたしたちも、神様に勇気を与えてくださいと祈り願い、歩みを進めたいと思います。そしてその与えられた勇気を、神様のために、また辛い思いをしている人たちのために、用いていきたいと思います。
