【ルーテルアワー】お引越し|何処にいても神様はあなたと一緒に
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「Aちゃん、今度引っ越しするんです」と、保育士から3才児の礼拝後に告げられた。戻って来たAちゃんは「ママがお引越しするって言ってた」と、普通の顔で私に教えてくれた。「まだ、お引越しのイメージがないのだろうなぁ」と思った私は、引っ越し先でも元気でいて欲しいという気持ちを込めて「何処に行ってもお友だちは一杯いるからネ」とAちゃんの頭を撫でながら言葉を掛けた。
父の転勤で、小学1年の6月、中学1年の6月、中学2年の9月と3回転校した。小1の時は、転校して直ぐに鏡の問題のテストがあり、前の学校では未だ習ってなかったこともあって、私は意味が全く分からず結果は「0点」、その記憶だけがある。中学の時の2回の記憶は鮮明で、転校初日、母に連れられ学校に行くと先ず校長室で挨拶。次に担任になる先生がやってきて、教室に案内してくれるのだが、母と別れ先生に連れられ歩く廊下では不安ばかりが襲ってきた。今なら「まるで監獄に連れられて行くような」と表現するのだろうが中学生ではそんな発想はなく、ひたすら「いつまでも廊下が続いてくれたら良いのに」と思ったものだった。しかし教室には直ぐに着き、緊張の中で自己紹介。2度ともほぼ同じ記憶が今も鮮明に刻まれている。不安だらけの記憶が引っ越しした日だけなのは、直ぐに友だちができたからだった。中1の時の友だちは学校までの道のりをいつも一緒に通ってくれたこと、中2の時の友だちは、いざこざがあった時にさりげなくサイクリングに誘ってくれ、一日中寄り添ってくれた。だからAちゃんへ「お友だち」と言葉を掛けたのも、無意識で「お引越し=不安=友だち」と心が働く私が発する自然な言葉だったのだろう。
壮大な「お引越し」をしたのがイスラエルの民である。エジプトから父祖たちの、そして約束の地への引越しには、40年という年月を必要とした。40年を要した理由は民数記13章に記されている。彼らの不信仰が招いたものであるが、見方を変えれば、「信仰が練られた年月」と言えなくもない。荒野の中で与えられた十戒を通して、神が養ってくださることを経験した(させられた)年月であり、同時に不信仰な民であっても、神は決して見捨てないことも彼らは知ったことであろう。壮大な「お引越し」を通してこそイスラエルの民は、「神はどんな時にも共にいてくださるのだ」と知ったのである。
だからAちゃんとお別れする時に、先ず最初に「神様がいつも一緒にいてくださるからね」と言葉を掛けてあげられなかった私は、「チャプレンとしては失格だ!」と反省。
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