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バイブルエッセイ


2015.12

「罪人たちのクリスマス
~All I want for Christmas is You Sinner! 」

201512「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、 そのまま受け入れるに値します。」(テモテへの手紙一1章15節)

クリスマスが近づいて来ると、1994年にヒットしたマライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス(原題「All I want for Christmas is You」クリスマスに欲しいもの、それは〝あなた〟)という曲が自然とわたしの頭の中に流れてきます。でも本当は「恋人たちのクリスマス」ではなくて「罪人たちのクリスマス」というのが真実なのではないでしょうか。キリストがこの世にお生まれになったその意味を考えると、そのように思えてくるのです。

 スウェーデンの作家で1909年にノーベル文学賞を受賞したセルマ・ラーゲルレーヴという人がいます。この人はキリストに関する伝説のようなものを題材にして小説を書いていて、その中に『わが主とペトロ聖者』という小さな短編があります。芥川龍之介の有名な『蜘蛛の糸』のお話の元になったとされる作品で、大変興味深いお話です。

 お話をわかりやすく要約しますと、イエス様とペトロとが天国に行って、天上から下界を見ていると、ペトロが下界の様子を見て泣くのです。「自分はこうやってイエス様と一緒に天国に来て大変幸福だ。でも自分の母親はじつは地獄で苦しんでいる。だからぜひ、母親を天国へ連れてきてほしい」とイエス様にお願いをします。イエス様はその時ペトロに「なぜ、お前の母親が天国に来られないのか?きっと、お前の母親は大変お金にうるさくて、欲が深いから天国に来られないのだ」と言います。ペトロは「そんなことはありません。あなたは必ず人をお救いになることだから、ぜひわたしと同じように天国へ母親を連れてきてほしい」そう願います。そこでイエス様は、天使に命じて、「お前は地獄へ下りて行ってペトロの母親を迎えに行きなさい」と言います。そのイエス様の言葉を受けて、天使は羽を広げて矢のように地獄へと下って行き、ペトロの母親を迎えに行くのです。ペトロはしばらく地獄を覗き込んでいますが、なかなか天使が上がって来ません。しばらくして、天使が勢いよく下から母親を連れて上って来るのが見えてくるのですが、よく見ると、その母親の肩と言わず腕と言わず足と言わず、大勢の人がしがみついています。そして大勢の人たちがしがみついているにもかかわらず、天使は勢いよく天国に向かって上って来るのです。「おお、すごい!」

 しかし、よく見ると、ペトロの母親が途中で、自分にしがみついているその人間をどんどんと振り落としていっています。そして不思議なことに、人が下へ下へと落ちて行くにしたがって天使はだんだん上ってくる力が弱くなってくるのです。とうとう、最後の一人が母親に必死にしがみついていますと、天使は喘ぎ喘ぎ上ってくるようになる…そして天使が喘ぎ喘ぎ上って来る途中に、最後に残った一人を母親が振り落とすと天使は力を失って、とうとう上りきれなくなってしまい、結局天使はペトロの母親を振りほどいて下りて行ってしまうのです。それを見てイエス様がペトロにむかってこういうふうに言いました。「お前はこの有り様を見たか?だからわたしが下界へ下りて行ったのだ」。

 キリストは天国から下界を見下ろしていて、人々が天国に自分の力で上ってくるのを待っている…そういうお方ではなく、人間のこの罪の世界に自ら下りて行くお方である…そのことをラーゲルレーヴはこのお話から語っているのです。

 「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と聖書はわたしたちに告げています。クリスマスにイエス様がお生まれになった。罪人を救うためにこの世に来られたイエス様のご降誕を「罪人たちのクリスマス」としてお祝いしたいものです。イエス様もきっとこのように言いたいのではないでしょうか。「All I want for Christmas is You Sinner! 疲れはてし罪人よ、われにとく来よ!」。メリー・クリスマス!
日本福音ルーテル板橋教会・東京教会 牧師 後藤直紀

2015.11
「主人と僕 あなたにもタラントンが与えられています」

201511 「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」(マタイによる福音書25章21節)

 「タラントンのたとえ」(マタイ25・14以下)は、イエス様の語られた有名なたとえです。主人が旅行に出かける前に、3人の僕たちに各々の力に応じて5タラントン、2タラントン、1タラントンのお金を預けます。この主人は、普段からよほど僕たちのことを気にかけ、一人一人のことをよく見ていたに違いありません。それぞれにちょうどよいタラントンを預けたのですね。

 さて、主人から5タラントンと2タラントンを預かった僕たちは、そのお金を元手に、一生懸命商売をして倍の額に増やし、主人に差し出します。すると主人は、「忠実なよい僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」と言います。この時、主人は嬉しさのあまり、僕の肩をポンポンッと叩いたか、僕をギュッと抱擁したか、ニコニコとうなずいたか…。聖書には詳しくは描かれていないのですが、とにかく満足と喜びいっぱいの様子が彼の言葉から伝わってきます。主人と2人の僕たちは、とてもよい関係なのですね。

 この2人は、主人から預かったものを増すために一生懸命励んだことでしょう。彼らは頭も心も手足も、主人を喜ばせるために動かしたのです。そして苦労し、工夫し、積極的に活用して預かったものを倍に増やすことができました。主人としては、彼ら2人がこんなにも一生懸命、しかも自分を喜ばせようとして励んでくれたことが何よりも嬉しくてたまらないのです。「主人と一緒に喜んでくれ」とは、最高の褒め言葉ではないでしょうか。「私の喜びはお前の喜び!私たちは同じ喜びを分かち合える仲なんだよ」ということです。これほどの言葉をかけられて2人の僕は非常に恐縮したでしょうけれど、主人がこんなにも喜んでくれ、こんなにも自分を信頼してくれて、まるで身内かなにかのように「同じ喜びを分かち合おうよ!」と言ってくれるのですから、本当に嬉しかったでしょうね。「主人と僕」という主従関係を超えた、温かな交わりと固い絆が両者の間に結ばれていることが伝わってきます。

 さて一方、1タラントンを預かった僕ですが、彼はそれをそのまま主人に返しながら言います、「恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」。この言葉からは、主人に対する信頼や愛情は少しも読み取ることができません。この僕が主人に対して恐れや疑いを抱いていたこと、それゆえ萎縮して動けなくなってしまった様子が伝わってきます。主人は「怠け者の悪い僕だ。銀行に入れておけば利息付きで返してもらえたのに」と怒ります。

 先ほどの2人が 主人を喜ばせることだけを考え、預かったお金を活かして増やしたのとは反対に、この僕は主人を喜ばせることなど少しも考えなかったようです。彼が考えていたのは、ひたすら自分自身のことで、自分が主人から叱られないように、失敗しないように、そればかりを考えて結局は何もできなかった、いや、何もしないほうを選んだのです。もしも、彼に少しでも主人を思う気持ちがあったら、おそらく金を土の中には埋めなかったでしょう。主人が言うように、銀行に入れておけば少しであっても利息が付きますから、「土に埋めておくよりはちょっとはマシ、少しはご主人のためになる」と考えることができたでしょうね。土に埋めておくのも、銀行に預けておくのも、自分は何もしない点では同じですが、しかし主人のためには、少しでもよい方を選ぶのが預かった者の務め、とは残念なことに思い至らなかったのです。

 私たちも恐れや疑い、落胆や失望に囚われてしまって、神様の御心は何か、神様を喜ばせる道はどれか、ということが考えられなくなる時があります。ついには、「やはり私にはできない。私には可能性も能力も力もないのだから」と落ち込んでしまう。そして、意識しないことが多いのですが、落胆そのものの中に、神様への反発が潜んでいるのではないでしょうか。私たちが「結局、こんなことになったのは神のせいだ。私がこんな性格になったのは神がこのように創ったからではないか。この困難な状況に私を置いたのは神ではないか。能力と才能を与えてくださらなかったのは神ではないか」などと言って神様を責めてしまうとき、造り主なる神様を最も悲しませるのではないでしょうか。

 しかし、それでもなお神様は「あなたを造ったのは私だ。あなたに困難な道を通らせたのは私だ。あなたに弱さを与えたのは私だ。それらを天からの賜物、チャレンジとして受け止めてほしい。土の中に埋めてしまわずに活用してほしい。そして、最後に一緒に喜びを分かち合ってほしいのだ」と、絶えることなく私たちを招かれるのです。
 神様の賜物は全て最善と信じ、与えられたタラントンを用いることができるよう祈りつつ歩みましょう。


日本福音ルーテル函館教会牧師 坂本千歳
 

        

2015.10

「これはいったいどういうことなのか」

201510「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と
互いに言った。」 (使徒言行録2章12節)

 人には自分の力(理性)で知ることができるものとそうでないものとがある。
 ルターが気づいたことでした。宗教改革に身を置いて聖霊だけが教えるものがあるとルターは悟ってゆきます。「私は何もしなかったのだ。みことばがこのすべてを引き起こし、成就したのである」(「四旬節第2説教」1522年3月10日※)と述べたのはそのような思いからであったのでしょう。その思いはルターその人のものでありながら、同時にいつの時代のキリスト者にも共通する体験となります。実際、それは教会のはじめからあったものでした。使徒言行録2章に記されている聖霊降臨の出来事です。そこで〈教会の誕生(聖霊降臨祭)〉から〈教会の歩み直し(宗教改革記念)〉を結び合わせる聖霊の働きに思いを向けたいと思います。

 使徒言行録2章にある聖霊降臨には「一同」と呼ばれる聖霊が降ったという人々のほかに、その傍で「これはいったいどういうことなのか」と驚き戸惑う人たちがいました。この日から人々は聖霊を受け、宣教に本格的に乗り出します。主の言葉を伝え、信仰の伝播がはじまります。しかし、そこに別の人たちがいたことも使徒言行録はきちんと述べています。最初の聖霊体験にこの人たちの戸惑いと驚き、意外性とつまずきの体験が含まれていることには大切な意味があったと思います。

 もし仮に聖霊降臨が「一同」と呼ばれる一部の人たちだけの話なら、当人に重要であっても、他の人々にはほとんど関わりのない話です。聖霊降臨が誰にあったかではなく、次に何が起こったのかが使徒言行録の関心事です。そうして2章から「一同」と、驚き戸惑う人たちの物語がはじまります。私たちはみな、この物語を生かされているものでもあるのです。

 聖霊が注がれてこの人たちが気づいたことがありました。事の始めに、自分たちの言葉と思いと計画を超えているものがあるということをです。宣教のはじめに良い思いがあり、その終わりに良い業がある。私たちの業ではありません。旧約聖書のはじめに「光あれ」(創世記1・3)といった御業についてです。

 私たちには教会の門をくぐったり、洗礼を受けたり、新しい何かをはじめるときに自分なりの動機やきっかけがあります。いろんな出会い、導き、出来事があります。いずれも大切ですが、聖霊を軸に考えるとさらに大切なことに気づきます。

 そのはじめに神が事を起されていた。それを測りがたいものとしてキリスト者は受け入れます。時に口ごもりながら、時に迷いながらです。そして信じた通りに生きて歩んでいこうとします。そこに人の行き交いがあり、神の導きがあることを心の眼で互いに見ようとします。

 最初の聖霊降臨祭には異なる人たちがいて、その日の出来事にはつづきがありました。同様に、信仰生活には自分を超えて、他者がいて、相手があることに気づく時があり、使命や託せられたものがあることを心で受け止める時があります。それがなかったら教会や信仰生活は、片方の翼で飛んで行こうとするようなものです。初代教会でいえば、弟子たちや周囲の人で、聖霊が降った、恵まれたといって喜び祝い、やがてその人たちがいなくなれば終わってしまう信仰です。

 使徒言行録は人から霊へと視線を転じます。聖霊の行先へと自らの歩みを重ねてゆきます。2章12節のつまずきは、続く41節の教会の誕生へと跳躍します。「ペトロの言葉を受けいれた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒2・41〜42)。 使徒言行録は28章で終わりますが、この聖霊の働きは終わっていません。そのつづきが次の世代の人々によって担われ、さらに福音は手渡しされ、ここまできています。そのはじめに主の言葉があり、聖霊の導きがありました。宗教改革500年の時を刻むとき、「聖霊だけが教える」ものがあることを心に留めたいと思います。

日本福音ルーテル田園調布教会・日本ルーテル神学校 宮本新牧師

 

2015.09

「主よ、ください。」

201509「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
そこでイエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい」。
(マルコによる福音書第7章28、29節)

 何とはげしい、ことばとことばによるぶつかり合いであろう!  まさに火花飛び散る〈論争〉というにふさわしい。
 しかも、驚くなかれ。ここで、主イエスは――これまで、ファリサイや律法学者たちと論争をし、ことごとくその相手を打ち負かして来た主イエスが――負けておられるのである!  主は、この人のことばに負けてしまった…。いや、むしろ負けることを喜んでくださった。

 主イエスとがっぷり四つに組んでこの方を負かしてしまったのは、ファリサイや律法学者たちが「この者に触れたならばどうしたって手を浄めなければ食事が出来ない」と考えていた異邦人、しかも女性である。どう見ても当時は軽んじられていたに違いない。
 しかし、その女性が――ほんとうに小さな女性が――主イエスを説得してしまったのである!

 主イエスはこのとき、一人ガリラヤを離れ、地中海沿岸の地方の「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」(マルコ7・24)。ある人は、主イエスもお疲れになったのでバカンスを取られたのだ、という。その当否はともかくとしても、ここに、そのように隠れてしまおうとなさる主イエスを引っぱり出してしまった人が出て来たのであった。「すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏し・・・娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ」(同7・25〜26)。
しかし、しかし――。必死の思いで飛び込んで来たこの母に対する、主イエスの応えのなんとつれなきことか。
「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(同7・27)。

 犬――。よくもこのような言葉を主はお使いになったものだと思う。異邦の民に対する明らかな卑称である。主イエスは「小犬」と仰ってその鋭さを和らげているのだと言う人もいるが、その厳しさにはいささかの変わりもない。

 主イエスに願っても、そのみ名を呼んでも、主が、神がみ顔を隠しておられる。想い起こしたらよい。舟を漕ぎ出して、突風の中で舟が大揺れに揺れる。ところが主イエスは黙ったまま、しかも熟睡しておられた。あるいは「先に向こう岸に行きなさい」と遣わされて、主イエスだけが陸地におられると逆風のために漕ぎ悩んでしまう――。主イエスを呼びたくても、呼べない。そういう悲しみと苦しみが、そこにある。

 ここも同じだろう。いくら呼んでも、叫んでも、主イエスはわれわれの願いを退けておられるように思える。主イエスはここでハッキリとこの者の願いを拒絶なさる。一線を引いておられる。しかし、この女性、「もうこの方は駄目だ、他の所へ行こう」、そうではないのだ。

 「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」(同7・28)。

 彼女は言い返した。
 
 主よ、アーメン、その通りです!  しかし、食卓の下に、あなたのパン屑はこぼれ落ちる筈でしょう。確かにあなたはユダヤ人の救いのために来た。けれども、あなたの力はユダヤ人の救いのためだけに用いるには、まだまだ有り余るでしょう。あなたの恵みは実に豊かな筈でしょう。
 その僅かな部分、わたしにも頂けますね――。あなたはそれほどに豊かなお方です。

 そう、この人は、神に脅しをかけない。もしもわたしの願いを聴き容れてくださらなければあなたを神としません、イエスよもうあなたを信じません、そういう短気ではないのだ。 まさしく、神を神とする――。彼女はただ、主イエスの豊かさを見抜き、それに信じた。信じ動いた。全霊をもって。そして、顔を上げるのだ。

 「主よ・・・!  あなたは豊かなお方です」。

 どこまでもご自身を見上げる者に、主イエスは負けてくださる――。そして、彼女と同じく、神の子の前にひれ伏し、跪き続けるわたしたちにむかってこぼれ落ちてくるのは、この主のことば――。わたしたちが今も溢れるほど戴くのは、この主のことばをおいてほかにない。

 「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい」(マルコ7・29、口語訳)。 

日本福音ルーテル賀茂川教会牧師 神﨑 伸

 

2015.08

平和の基がここに」~平和主日を覚えて

201508「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(ミカ書4・3)


  聖書は珠玉の言葉に溢れている。この預言者ミカの言葉もその一つだ。初めて出会った時の不思議な感動を今でも覚えている。『剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする』。ここに平和を求める人間の姿が、鮮やかに示されている。

 今年は戦後70年、あの夏に生まれた人も古稀を迎える。戦争には人間の罪が100%現れる。隠れていた人間の罪が伝染病のように広がり、闇が光を覆い尽くし、人を狂気へと駆り立てる。勝利を得ようと「何でもあり」 に堕ちてゆくことが、深刻な問題だ。70年前、沖縄戦に続く無謀な作戦の継続によって、多くの人命が失われていった。特に、若き命が散らされたことに心が痛む。最終的には全軍へと変貌した特別攻撃(特攻)、広島と長崎への原爆投下、そして降伏へと突き進んだのである。

 あの悲劇的な戦いの中、命を慈しんだ一人の軍人がいたことをご存知だろうか。愛知県豊田市出身の旧海軍芙蓉部隊長、美濃部正である。全軍特攻が至上命令となる中、抗命による死を覚悟しつつ、 最後まで航空特攻を拒否した指揮官だ。彼の部隊は必死の特攻に代え、決死の夜間攻撃に徹した。部下たちも指揮官の捨て身の姿に報い、特攻に劣らぬ多大な犠牲を払いながら、最後まで運命を共にしたのである。

 箴言は「憎しみはいさかいを引き起こす」( 10・12a)と教える。その通りだ。憎しみがいさかいを引き起こし、いさかいが新たな憎しみを生み出してゆく。憎しみの連鎖が人間の歴史を形作った。それはミカの預言とは正反対の出来事である。憎しみが『鋤や鎌』を『剣や槍』に打ち直し、恐怖が梵鐘や金属像を武器へと鋳直させた。愚かである。本当に人間は愚かで罪深い。その愚かな人間の罪の世界は今も続き、その中に私はいる。あなたもいる。私たちはここに置かれているのである。

 10年程前、8月になると私の心の中で一つの声が響いたことがあった 。 「私は人殺しの子なのか」と。多分、父が太平洋戦争に4年程従軍したことが関係している。父が戦争で人を殺めたかどうかは定かでない。その可能性は否定できない。だから、後に国際公法が戦争における殺人行為に罪科なしと定めても、心にストンと落ちない。神様との関係は一体どうなのか。そのことが気になっていたのである。父の罪を子は負うのだろうか?

 十戒等に「・・・わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出エジプト20・5他)とあり、「アコルの谷」(ヨシュア7・24〜26)の出来事は父の罪が子に及んだことを示唆する。一方、後の預言者エゼキエルは「子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」(エゼキエル18・20)と語る。どういうことなのか。時の経過と共に 「罪理解」 に変化が生じたのか。

 いやそうではない。大切なポイントを私が見失っていたのだ。救いは律法ではなく福音にあることを。イエス様もそのことをお教えくださった(ヨハネ9章、ルカ13章)。父祖の罪の規定には、加えて「・・・戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみが与えられ、罪と背きと過ちが赦される」と明記されているのだ。三代、四代どころではない。幾千代である。信じる者にはとこしえに神様の慈しみと罪の赦しが与えられるという。ここに神様の愛の絶大さがある。ここに私たち人類の救いの道が示されているのである。もう、私の心にあの声は響かなくなった。

 イエス様の十字架の愛により、人類すべての罪は覆われ、贖われていると信じる。「愛はすべての罪を覆う」(箴言10・12b)とある。その通りだ。イエス様の十字架の苦難を信じる者には、とこしえの慈しみと赦しが与えられるのである。ここにすべての平和の基がある。戦争を悔い改めつつ、平和を実現する者として歩みだすための基が。共に福音宣教の道を歩もう。
日本福音ルーテル挙母教会牧師 ミカエル鈴木英夫

2015.07

心動かされて

             
201507 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」                     (マタイによる福音書9章35~38節)

 
 弟子たちとガリラヤ地方を巡り歩くイエス様。イエス様は方々の町や村で福音を宣べ伝え、病を癒すわざを行っていきます。そこでイエス様は、人々が飼う者のない羊のようなありさまであるのを見ます。世話をするもののない羊に例えられる姿、それは、生活に疲れ果て、不安や心細さ、あるいは苦痛を抱え、訴えながらも、どうしたらその状態から脱出できるのか判らない人々を表しています。
 

 その状態を見て、イエス様は「深く憐む」のです。この深く憐れんだという言葉は、「彼らのことで腸のちぎれる想いに駆られた」ということを意味します。それは上から見下ろすような同情とは違うのです。腹の底から突き動かされるような衝撃を受けたということです。この思い、体験。それがイエス様を次の行動へと突き動かしていくのです。12人の弟子たちを宣教と癒しのわざを行うために派遣するのです。

 その弟子の派遣。およそ現実的とは思われない勧めがなされています。つまり、弟子たちは身に付けた衣類以外の物は、何も持つことを許されないのです。そこでは手ぶらで出発するようにといわれています。

 ここで、この手ぶらで出かけるということの意味を、少し自分のこととして考えてみたいのです。
 人が何かを始めようとするとき、資格や技術があることは、確かに役に立つことのように思えます。しかし実際のところ、過去の経験の中では、「私にはこんなことが出来る」とか、「こんな技術を持っている」ということは、さほど私を助けてはくれませんでした。むしろ「自分はまだまだだなぁ」と思うことの方が多かったし、今もそうです。だから「私は何かを持っている」とか、あるいは「他の人に上げることのできる何かが自分にある」と考えることは、おこがましいのかもしれません。

 実際、そのとき必要だったことは、「私が教えてあげる」という姿勢ではありませんでした。あるいは自分自身の技術や資格に対する自信でもありませんでした。むしろいろいろな人たちとの出会いの中から、私自身が何かを学ぶ、教えられることの方が多かった、ということです。ですから、たぶん弟子たちが出かけるときに、手ぶらでいることを求められているのは、そうした「出会って、聴き、学ぶ」姿勢を持つことを意味するのです。

 イエス様が語る「収穫」とは、「人々の思いを聴くこと」であるともいえます。人々の感じる苦痛や悩み、怒り、あるいは喜び、それを聴いて集めていくこと、それが収穫なのではないか、と思うのです。弟子たちがなすべきことは、人々の思いを携えてイエス様の前に差し出すことです。そのことが癒しを起こすし、癒しそのものであるといえます。それはまた、派遣された弟子たちにだけ命じられていることではない。 今の教会に対しても、私たちに対してもまた、命じられていることなのです。私たちが出会う人たちの思いを、また私たち自身の思いを聴き、集め、イエス様の前に携えていくこと、その「収穫」と癒しのわざが求められているのです。

 最後に、弟子たちは、自分たちだけが派遣される者として立てられているのではないということも重要です。弟子たちに求められているのは、働き手が増し加えられるようにと祈ることです。そのために心を砕き、思いを巡らして祈ることです。この働き手が与えられるように祈るとは、決して「誰か他の人がやってくれる」と任せっきりにしてしまうこととは違います。ふさわしい働き手を、信頼に足る働き手を、探し育てることでもあります。

 それゆえに弟子たちは、イエス様自身が感じたように、出来事や出会いの中で、心深く憐れみ、心突き動かされる体験から感じとることを、やはり求められているのです。

 今、現代に生きる私たちが、弟子たちのように、伝道へ、福音宣教へ、癒しのわざへと召し出されていくことを望むならば、私たちもその感性を磨くことを忘れてはならない、そう思うのです。
日本福音ルーテル宮崎教会牧師  秋山 仁
 

 

2015.06

「主からの一歩、そして主に従う一歩」

201506イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコによる福音書2章13〜17節)

 板橋教会出身の私が、山口県と島根県にまたがるシオン教会に赴任し3年目の春となります。この原稿は、山口県の徳山礼拝所、20人程の礼拝出席の教会で書いています。現在、朝9時です。あと1時間で島根県の益田礼拝所に向かいます。その距離片道100キロ。中国山脈の横断です。今の時は、大変に素晴らしい時期です。「目に青葉、山ホトトギス、初鰹」の江戸の俳句は確かだと思います。白雲青空の下、葉桜や山藤、山ツツジが映えます。益田教会では、3、4人での礼拝を守り、確かな喜びを抱きます。益田の次は、徳山との中間地、 島根県吉賀町六日市です 。こちらも5、6人ながらも豊かな礼拝です。帰りは22時過ぎです。木曜の走行距離は210キロ。高速道路でなく、峠道を行く往還です。冬季は、路面凍結やシャーベット状の道路を行くこともあります。帰路、ダム湖の傍を通る時には一年中、センターラインも見えない濃霧に困ります。しかし無事に帰り着くと、「今日も僕は、無事故、無違反という意味だけの安全運転を心掛けた」という感想を抱き、そして「守られ、導かれた」と思わされます。

 冒頭の聖書は、徴税人レビの物語です。レビは「収税所に座っている」と記されています。 収税所という場所、 制度は、現在の税務署の役割がそのまま当てはまるということではありません。市民からの税金徴収と、上級官庁への献納は、役割としては今日と確かに同じです。しかし「税金徴収」の際に収税人たちは自分の利得分を上乗せして多く集金していたということがあったのです。いきおい、厳しい視線を集める職業ということになりました。仕事として腹を括る、つまり「自分の仕事だからしょうがない」と諦めていたでしょう。だからといって、人々からの厳しい視線は、経験を重ねてもこたえるものです。針のむしろに坐すような心持ちで仕事の合間の休息を取っていたのでしょう。それがレビでした。

 レビは、イエスさまから弟子入りの言葉を頂きます。するとレビはイエスさまに従うものとなるのです。 イエスさまの言葉の力強さと共に、レビの鮮やかな転身が印象に残る聖書箇所です。レビの転身の出来事に、私自身、思いを傾け、 その心境に至った時期もありました。レビは、人々から厳しい視線を集める仕事を捨て、神さまに仕え、その働きをなす仕事に至った、と。レビがイエスさまの世界に入った。言い方を変えれば、俗なる者が聖なる空間へと至ったと、かつてそのように聖書を読み、今も折にふれてそんなことを思います。

 しかし、改めて聖書を読むと、「俗から聖」ではなく、むしろその反対かと思わされます。つまり「聖から俗へ」なのです。イエスさまは、聖書全体を通して、徴税人など、当時としては白眼視された方々と交流を深められます。とやかく言う人々は登場しますが、イエスさまはその白眼視をものともされませんし、時にはそれと戦います。ここでは、イエスさまは、自ら、レビの世界に入られたのです。結果を見れば、レビは弟子となり、収税所の仕事とは距離を置いたのでしょう。しかしその契機は、イエスさまがレビに近づき、その生活の中に入ったが故に、レビの生き方が変化したということです。

 レビは、確かに頑張りました。今までの生活を脇に置いてイエスさまに従うという決断は、並大抵のことではありません。けれど、そのような生き方を決断させたのは、他でもないイエスさまの言葉があるが故なのです。「私は頑張っている、しかし主はそれを越え、計り知れない所での恵みを増し加えてくださる」のです。そして、今までのレビの生き方も無駄ではない、ということも覚えたいのです。今までの生活、生き方があったがために、レビにはイエスさまの言葉が響いたのです。「あなたの今までの人生に、無駄なものは何一つもない。イエスさまはそれをも用いてくださる」のです。 

この6月、イエスさまの言葉によって導かれるルーテル教会の群れとして、過ごしたいものです。

日本福音ルーテルシオン教会牧師 水原一郎

 

2015.05

「違うけれど同じ」

201505「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」
(コリントの信徒への手紙一12章14節) 

 早いもので、牧師になって20年が過ぎました。思い起こせば「阪神淡路大震災」や「オウム地下鉄サリン事件」など、日本社会の転換点にあたる年に、私は牧師としての歩みを始めたわけです。前任地は大学でしたが、現任地は附属幼稚園をもつ教会です。右も左も分からない状態からスタートした幼稚園の園長職も、8年経ってようやく板についてきたのではないかと思っています。

 また不思議なことに昨年度から、私が卒業した二つの大学より兼任講師の依頼を受け、久しぶりに大学の教壇でキリスト教倫理を講じる機会をいただいています。生殖補助医療や人工妊娠中絶、安楽死・尊厳死の問題をあらためて論じる必要に迫られて、この20年間の経験を通して、私の視点も変化してきたことを実感しています。この8年間、幼稚園で出会った様々な園児たちと保護者たちとのかかわりが、私を成長させてくれています。

 世界で最初の幼稚園を創立したのは、ドイツ人フリードリッヒ・フレーベルです。彼はその著書 『人間の教育 』のなかで、こう述べています。「遊戯すること ないし遊戯は、幼児の発達つまりこの時期の人間の発達の最高の段階である。というのは、遊戯とは‥‥内なるものの自由な表現、すなわち内なるものそのものの必要と要求に基づくところの、内なるものの表現にほかならない‥‥あらゆる善の源泉は、遊戯のなかにあるし、また遊戯から生じてくる。力いっぱいに、また自発的に、黙々と、忍耐づよく、身体が疲れきるまで根気よく遊ぶ子どもは、また必ずや逞しい、寡黙な、忍耐づよい、他人の幸福と自分の幸福のために、献身的に尽くすような人間になるであろう‥‥母親よ、子どもの遊戯をはぐくみ、育てなさい。父親よ、それを庇い、護りなさい」。

 私の園では毎年、卒園する年長さんとのお別れ焼きそばパーティーを行っています。年中・年少児が野菜を刻み、先生たちが大きなフライパンで作ってくれた山盛りの焼きそばを、皆で食べるのです。
 ある年のパーティーでのこと、年少さんのRくんとKちゃんが、同じテーブルに着いて2人で泣いています。Rくんはダウン症児。ちょうどそのそばを通りかかった私は、頭の中で勝手に想像を膨らませ、Rくんは泣いているKちゃんに共感し、一緒に泣いているんだろうと考えました。実際、Kちゃんはちょっとしたことで泣いてしまうことが多い園児でした。まさしく「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12・15)という聖書の言葉を、Rくんは自然に実践しているのだろうと。

 後になって、クラス担任の先生から事のいきさつを聞きました。Rくんはいたずら好きで、テーブルに置いてあったKちゃんのランチョンマットをわざとテーブルから落としたというのです。泣いて訴えるKちゃんに気づいた先生がRくんを注意したので、2人そろって泣いていたというわけです。もちろんRくんに特別な悪気があったわけではなく、ちょっとしたいたずらのつもりだったことは明らかです。しかしこの一件を通して、KちゃんはRくんに悪気がなかったことを学び、Rくんは自分のいたずらが他人を傷つけることがあることを学んだのだと思います。そして私は、ダウン症児はいつも無垢で善意に満ちているという、ステレオタイプの障がい観の間違いに気づかされました。園児たちも、園長先生も、こうして成長していきます。

 もしもこの幼稚園に、テーブルからわざとランチョンマットを落とすような園児が1人もいなくなったら、園児たちも先生たちも成長する機会を奪われるということに気づく人は少ないと思います。
 「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(コリント一12・14)

 多様性の担保される社会は、豊かな社会です。教会はぜひ、多様性の擁護者であって欲しいと思っています。日本福音ルーテル雪ヶ谷教会牧師 田島靖則

 

2014.04

「神の新しさで」

201504 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
                          (マルコによる福音書16章1〜8節)

 主イエス・キリストの復活を喜び、祝うことができますことを心から嬉しく思っています。復活は、新しい生命の始まりであり、キリストの復活を祝うことは、私たち自身が新しい希望をもって生きることを意味しています。イエスの復活は、私たちに「神の新しさ」が与えられて、その「神の新しさ」の中で生きることができるということのしるしです。

 聖書が伝えるイエス・キリストの復活の出来事は、大変意味深い象徴的なことに満ちています。たとえば、墓の入り口をふさぐ「大きな石」は、私たちの願いや思い、将来の希望を妨げるものと言ってもいいでしょう。入り口をふさぐ大きな石は、自分の力ではどうすることもできないこと、不可能に思われることの象徴に他なりません。

 私たちも、ずいぶんとそんな思いで生きることがあります。自分の将来がふさがれてしまっている。何かにふさがれて閉じ込められている。そんな状態が、「入り口をふさぐ大きな石」です。現代人の多くは、未来の展望がない閉塞感を感じながら生きているといわれています。まことに「大きな石でふさがれている状態」といってもいいかもしれません。

 ところが、行ってみると、この「大きな石」は、その日の朝には転がされていました。キリストのもとに行く者に、その石は取り除けられ、入り口は開いていたのです。このことは重要な復活のメッセージです。キリストのもとに行く者には、その石が取り除けられ、入り口は開いている。復活の朝の出来事を伝える共観福音書は、こぞって、このことを伝えてくれます。

 また、婦人たちが準備した香油や「空の墓」は、生きることの徒労と空しさを表しています。彼女たちが準備したものは無駄に終わりました。イエスの遺体が そこには なかったからです。 準備した香油が無駄になり、墓には何もなく、空虚でした。これは、私たちが生きることの「空しさ」そのものでもあります。それは、私たちの人生の根幹に関わることです。

 人生は徒労の連続であり、生きる意味や充実感もなく、空しくさびしい。私たちは、ずいぶんとそんな思いで生きることがあります。一所懸命準備したことが無駄に終わり、何の意味もなくなる。私たちは、自分の日常でも、そのことを度々経験しますし、どんなにがんばっても、どうせ老いて、やがてひとりで寂しく孤独のうちに死ぬだけではないかという暗い不安に襲われたりもします。人生は徒労の連続で、空しい。私たちの心の奥底にはそういう思いが常に潜んでいます。空しさは絶望につながります。

 聖書が伝える「無駄に終った香油」 や 「空の墓」は、 そうした空しさと絶望の象徴です。言うまでもなく、「墓」は、絶望と死そのものに他なりません。しかし、この復活の朝、空しさと絶望の空の墓の中で途方に暮れている婦人たちに、神の言葉が伝えられます。そして、キリストの復活が告知されるのです。それはまさに「新しい朝」なのです。

 言い換えれば、私たちが自分の人生の中で求めているものは、絶望と死の中にあるのではない、ということです。つまり、神の告知を聞き、復活を信じる者は、自分の人生が、どんなに苦労が多くても、絶望と死のうちには終わらないのです。復活を信じる者は、自分の心の奥底にある空しい思いや絶望的な思いの代わりに、キリストの復活を置くことができる。どんなに徒労や空しさが襲ってきても、私たちは神の復活の強さで生きることができるのです。復活の出来事を伝える聖書の言葉は、そのようなことに満ちているのです。ですから、イエス・キリストの復活を祝う私たちも、自分の中にあるどうしようもないことや暗いことをキリストの復活に置き換えて、神の復活の力、「神の新しさ」で生きていきましょう。

九州学院チャプレン 小副川幸孝

 

 

2015,03

「信じ、従うこと」
201503

神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22章2節)

神さまと信徒のみなさまのお支えと寛容さにより、40年のルーテル教会での務めを終え、退職することになりました。ありがたく感謝いたします。

 本稿のために掲げました聖書の言葉は、私の信仰生活と今に至る歩みの原点ともいえます。私は18歳で大学生活のために広島の田舎から京都に移りました。当然ながら、自分は何のために生きるのかと自らに問いかけました。何を目標にするかと思い悩みました。能力もなく、情熱もない! 大学を辞めて、船乗りになって海外にでも行ってみようかと思い、船会社まで行ったこともあります。しかし、その勇気もない! ないないずくめで、下宿先でこたつにあたってFM放送を聞いていました。そのとき朗読の時間だったと思いますが、旧約聖書のこのアブラハムがイサクを献げる話が聞こえてきました。 強烈に感動させられました。生きるとは「これなんだ」と気づかされました。

 長年待ち望んで与えられた、最愛の一人息子を犠牲にささげるなど、これほど理にかなわないことはありません。人間の感情と理性からするとありえないことに対して信じ、従う。「何故」の論理を超えることが語られています。唯一の理由は、神が命じられた、ということにあります。

 新約聖書には、弟子たちの間で誰が一番偉いだろうか、と議論が起こり、主イエスが「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(マタイ20・26)とお応えになる場面があります。結局、一番偉くなりたいという、人間の欲望を手に入れるために、その手段として奉仕するということなのかと疑問に思ったことがあります。他者に向かって奉仕しているように思えるが、それは結局 、 迂回して自分に向かうという、ルターの指摘する二重の罪です。しかし、この疑問についても、最後は主イエスがお求めになるから、それに従い奉仕すると理解することで、論理の空回りから自由になります。

 カルト宗教はこの論理を悪用して、信者を従わせています。一見すると同じですが、99・9%理性を尊重し、0・1%の神様の絶対に従うことと、理性を無視する態度には大きな違いがあります。また、本物と偽物の判別にとって重要な点は、どのように教えを実践し、証をするかということにあります。自分の絶望を主に委ね、主に従うという方向へと歩みだすことは、私にとって救いでした。

  ちょうどそのような時に、アフリカのビアフラ(現在のナイジェリア)で内戦が起こり、200万人の餓死者がでる悲劇が起こり、京都市内の3つのルーテル教会の青年会で募金活動を行いました。同じ時代に同じ地球に住んでいるのだから、私たちは何かなすべきことがあるのではないかと、その時強く思いました。その思いが、私のその後の教会での活動で形になったのが、「非営利活動法人フェアトレード・ラベル・ジャパン」と「一般社団法人わかちあいプロジェクト」の設立です。フェアトレードによって世界の課題に取り組む働きです。
 
 南と北の国の間に広がる貧富の差は、同じ地球に住む私たちの緊急の課題です。インターネットは難民キャンプでも接続でき、情報が一瞬にして世界の隅々に配信される中で、努力しても貧しさから抜けられない南の国の人たちの苛立ちと絶望感は、人々をテロリズムに駆り立てる要因の一つとなるとも言われています。
 現在の世界の混乱状態は、この不公平さが要因とも考えられます。単に途上国を支援するという発想を越え、私たち自身の存続にもかかわっています。その中でフェアトレードは、誰もが参加できる身近な貧困問題への取り組みです。 
 牧師は引退しますが、フェアトレードの働きは続きます。今後ともお支えください。

日本福音ルーテル聖パウロ教会牧師 松木 傑

 

2015.02

「内面の太陽」

201502天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイによる福音書13章44節)

陽気でいよう。陰気にならないようにしよう。神さまとの出会いは、常にセレブレーション(祝宴・祭典)だから。そしてまた、陽気であることは、祈りでもあるのだから。神さまの世界は、祝宴の舞台である。ゆえに、常に喜びに満ちていよう。そして、 その喜びを自分の祈りにしよう。イエスの譬え話は、人間が祝宴に招かれる話で満ちている。

 陽気であるための手短な経験は、笑いである。笑いは、最も神聖な経験の一つである。しかし、人々の笑いは浅い。事実、子どもの方がよく笑う。完全に笑う。しかし、子どもも成長するに従って笑いが浅くなり、笑いを抑えるようになってしまう。笑うべきか、笑うべきでないかの判断を下すことを躊躇するようになる。笑ってよい状況か否かを、考えるようになる。小さな子どもたちの笑いをもう一度思い出し、意識的にトータルに笑おう。そして、他人に対してだけではなく、自分に対しても笑おう。笑う機会を逃してはならない。笑いは、祈りだ。神への祈りなのだ。

 聖書によれば、私たちは、極めて局部的な人生、中途半端な人生を生きている。それは生ぬるい生き方であり、 熱くも冷たくもない。 その人生には、情熱がない。だから、今この時を、パラダイスにしよう。これを先延ばしにしないように。決して、延期してはならない。あなたが手にした唯一の瞬間なのだ。だから陽気でいよう。もっと笑おう。これは実に、具体的で現実的な体験である。そのためにも、イエスの譬え話は背後から私たちを励ましている。

 そのひとつが「天の国の発見の喜び」である。イエスの言う「天の国」とは、パラダイス、そして祝宴のことである。そしてそれが大きな喜びになるのは、自分の内面にある「生命の根源」すなわち、「永遠の命」を発見する時である。それは例えて言うならば、「内面の太陽」の発見である。
 私たちの外側に太陽があるように、その内側にも太陽がある。外の太陽は昇り、そして沈む。しかし、内側の太陽は、いつもそこにある。それは昇ることもなく、沈むこともない。 それは永遠である。内側の太陽と、その源泉を知らなければ、人は暗闇の中に生きることになる。しかし、その源泉を発見すれば、たちまちそれは人を深い深い至福の国、パラダイスに連れてゆく。そして今日、その旅は始まるのだ。

 宝のある「畑」とは、私たち一人一人である。神さまの働きがなされている、神の道具としての人間である。そこに、「宝」・「内面の太陽」がある。その宝は深刻に生きる人には、隠されている。神さまの働きの源泉を見つけた人は、幸いだ。イエスは言う。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧(まづ)しき者」(マタイ5・3、文語訳)。心の内面が空っぽの人こそ、パラダイスにいる。

 さらに「神の畑」とは、言い換えれば「神の手の中」・「神の加護の中」・「神の保障」を意味している。それゆえ、人間はこの世界について、何一つ心配する必要がなく、ただ、おゆだねするだけである。信頼するだけで充分なのである。

「神の」という言葉は、「神のもの」を強調している。イエスは「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17・21、口語訳)と言う。私たちは「神のもの」であるがゆえに、私たちの中に宝物があるのだ。「内面の太陽」が、燦々と輝いている。
日本福音ルーテル西条教会牧師 鐘ヶ江昭洋

 

2015.01

「希望」

201501それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 コリントの信徒への手紙一13章13節

 定年を控えて振り返ると、私は高校3年生の春に洗礼を受けました。家庭の事情により心の中に空しさがあり、イエス・キリストに従う生き方に希望を見出したからです。洗礼を受けた頃は昂揚感に包まれ、楽しかったのですが、年を取るにつれ、別の空洞があるのに気づきました。早い話、自分が悪いのに、あなたが悪いと人を傷つけて、その事に気づかない浅はかさ。想うべきでない事を喜んで想い、為すべきでない事は、これを喜んで為す卑しさ、愚かさ。 このような心の闇が徐々に深くなっていくのです。

 教会の1日神学校で、ボンヘッファーの獄中詩を学びました。彼は「私は何者か」と問い、次のように語ります。「人は、私が平然と微笑み、誇らしげに不幸の日々を耐えていると云う。しかし、私は籠の中の鳥のように落ち着きをなくし・・・些細な侮辱にも怒りのために体を震わせ、祈りにも思索にも疲れ果てる」。そして「偽善者」と「哀れな弱虫」のどちらなのかと、自問自答を繰り返し、最後を「わたしが何者であるにせよ、あなたは私を知っている。神よ、私はあなたのものである」と結びます。私は、冷静な心で、内面を真摯に見つめる彼に心が魅かれると共に、そのように、ただ自分を深く掘り下げ続けるだけでは意味がない事を教えられ、肩の荷が降りた気持ちでした。確かに、私の中には「惨めさ」しか見出せません。しかし、この私を、神がどのように思われるのか。私の私に対する思いではなく、神の私に対する思いが大切なのです。 彼は誠実な歩みを続けて、最後には処刑されますが、死に臨み、「これが私の最後です。しかしまた私の始まりです」と語ります。

 ここには絶望ではなく、希望があります。それは、あの詩の最後に、彼が「神よ、私はあなたのものです」と告白をする通り、 自分はあくまでも神のものであるという、神への強い信頼から来るものに違いありません。このように神を深く信頼する心は、あの厳しい状況にもかかわらず、最後まで神に従おうとする試練を通して、神から彼に与えられた恵みなのかもしれません。

 遅かれ早かれ、人は誰でも死と向き会う時が来ます。ボンヘッファーが身をもって示す通り、神に対して誠実に歩む人は、確信を与えられ、最後まで希望の中を歩むことが出来るのでしょう。翻って自分を顧みると、私の歩みは神と人に対して正しく向き合う厳しさに欠けています。生ぬるいだけでなく歪んでいます。心の闇は、やはり抱え続けています。ですから私は、自分の死に臨み、彼のような確信に立ち、澄んだ瞳で神と向き合う事が出来るのかと自分に問えば、ただ沈黙をして、下を向くだけです。

 イエスと共に 十字架に付けられた、あの犯罪人が頭に浮びます。彼にもそれなりの事情があり、あのように空しく最期を迎えることになったのでしょう。外側はともかくとして、歩みの中身を神から見たら、私と彼の歩みには違いがあるとは思えません。あの詩の言葉を借りれば、私は間違いなく「偽善者」と「哀れな弱虫」の両方を併せ持つ人間に見えるでしょう。結局のところ、私は彼と同じなのです。彼はイエスに「わたしを思い出してください」(ルカ23・42)と憐れみを乞います。
 

私も、神に対して不誠実な歩みしか持たない、ありのままの自分を差し出して「このままの私を、どうぞあなたの御心に留めてください」と願うだけです。彼はイエスから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)と約束の言葉を頂きました。私も、御国へ向かう人々の、最後の列の一人として「お前は私のもの」と神に呼び出されるなら、これに優る喜びはありません。

 このように、確かに私にも神から慈しみと憐みが与えられることに希望を抱き、これから先、頭を挙げ、1日1日を歩むことが出来れば幸いです。

日本福音ルーテル水俣教会・八代教会牧師 吉谷正典

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