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バイブルエッセイ

201412

「隠れなき光」

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。ヨハネによる福音書1章9節

201412 人間の視覚は光に依存している。光がなければ、我々は見ることができない。我々が自分で見ていると思い込んでいるものは、それ自体が光を反射し、我々の網膜に像を映さなければ見ることができないのである。見えないものは、我々が視覚的に見ていないというだけであり、それが存在しないということではない。存在するということは、現れているということではない。しかし、人間は現れていることだけがすべてであると考えてしまう。我々が感覚によって認識する世界は狭い世界である。

 反対に、信仰によって認識する世界は広い世界である。信仰によってこそ、神の世界、神の支配、神の国を見るのである。信仰によってみる世界が真理である。ヨハネが言う「まことの光」で見る世界である。

 この光は「まことの」と言われている。真理と同根の形容詞である。真理がア-レーテイア「隠れなきこと」であるから、「まことの光」とは隠れなき光、あるいは隠さない光ということになる。この光自体は「隠れなく」光り、照らすものを「隠さない」光である 。自ら隠れなくあり、自らと関わる存在を隠さないのである。その光自体がすべての人を照らすということは、誰もこの光から逃れることができないということである。隠れなき光に照らされるならば、隠れなくあらざるを得ない世界となる。これがヨハネが見ている世界、信仰の世界である。

 ところが、我々人間の世界は常に隠し、見過ごしてしまう世界である。人間の恣意によって真実は隠され、都合の良いものだけが提示される。こうして、人間は自らの罪に従った世界を作りだしてしまうのである。そうであってもなお、真理は隠れなくあるのだが。

 まことの光に照らされる存在は、隠れることができないだけでなく、見過ごすこともできない。互いに、 裸の自分をさらし合っている世界が、まことの光が照らす世界である。だからこそ、人間はまことの光を嫌うのである。他人の隠していることを見たいと願うが、自分の隠していることは見せたくない。自分だけは隠れていたい。それが人間の罪の姿である。

 そのように罪の中に身を潜めている存在であろうとも、来たりて照らすのが「隠れなき光」、「まことの光」なのである。この光こそ、隠れなく生きてくださったイエス・キリストである。キリストは、十字架の死に至るまで、ご自身を隠されなかった。捕らえようとするユダと捕縛者たちにご自身を現された。十字架の上で、すべてをさらして生き給うた。パウロは弱さから十字架に架けられたキリスト(2コリント13・4)を語ってもいる。弱さもありのままに見せ給うお方がキリストである。 このお方に照らされるとき、我々は弱さも、恥と思えることも、すべてをさらしてもなお、神の前に生きる者とされる。キリストの光に照らされることを受け入れる存在だけがそのように生きるのだ。受け入れない者は、闇に逃げてしまう。そして、自らを神の世界の外に追い出してしまうのである。そこに選びがある。照らされたくないと、隠れることを選ぶ者が自らの選びによって、自らを選ばれざる者としてしまう。隠れることを選ばず、神が照らすままに隠れなくあることを受け入れる者は、選ばずに選ばれている。光を反映する存在となり、光と一体となっているのである。

 我々キリスト者と呼ばれている者は、真実に光を反映しているか否かを常に問われている。何故なら、まことの光は常に我らを照らし続けているからである。「わたしの十字架の言を聞いているのか。」とキリストは問う。「わたしの光を受け入れているのか」と問う。自らを省み、来たり給う光を、喜びをもって受け取ろう、「来たりませ御子よ、隠れなき光よ、まことの光よ」と歌いつつ。あなたのクリスマスが、隠れなき光に照らされたまことのクリスマスとなりますように。
日本福音ルーテルなごや希望教会牧師 末竹十大  

 

201411

「神様をどのように知るのでしょう」  

201411神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(ヘブライ人への手紙1章1〜3節)

「神様は本当におられるのでしょうか、夫と子どもが病気になって不安なのです。」という質問がありました。私は「おられますよ」と答えましたが、私たちは神様の存在をどのように知ることができるのでしょうか。
 モーセが神について尋ねたとき、神は「わたしはある、あるという者だ」(出エジプト3・14)とお答えになりました。そしてまた「あなたはわたしの顔を見ることはできない」(同33・20)と言い、人に姿を見せないで「通り過ぎる」神だとご自分を表現されました。

 全世界の創造主なる神は、私たちが見ようとしても捉えどころがないのです。しかし、私たちにご自分を示すために、御子、すなわち主イエスをお送りくださいました。

 冒頭の聖句にありますように、全権委任された御子によって神は私たちに語られるのです。神は御子イエスによって私たちに神を示し、御子を見れば神が分かるようにしてくださっています。
 
 イエスは、誰からも相手にされない者のところに来て親しく交わり、病む人のところに来て癒してくださったお方です。 弱い人のことを特に気にかけてくださる、本当に 愛に満ちたお方です。しかし、その反面、大変厳しく正義を求めるお方です。ですから、義に照らして正しくない祭司長や民の長老たちに立ち向かい、ついには十字架に付けられて殺されてしまいました。実は十字架は、義を実現するためのものでした。

 神は創造のとき、全てを良いものとしてお造りになりました。人は神によって造られた者です。従って、神の僕として神に導かれ、徹頭徹尾、神のあわれみと恵みの中に生きるべき者です。しかし、そのことを忘れ、自分たちで何でもできるなどと思い、様々な悪い現実をもたらしました。
 
 私たちは、飽食にうつつを抜かし、一方で飢えている人々のことを忘れるなど、他人の痛みを感じることなく自分本位の生活を送っています。分をわきまえず、エネルギーを使い放題で地球を荒らし、それゆえに異常気象などがもたらされていると言われます。また、大小の紛争はいつまでも尽きません。

 それらは全て、私たちが神をないがしろにすることにより生じているのではないかと、私は自らを省みるのです。その私たちの傲慢さを、神はそのまま許すことはできないのです。

 しかし、神はご自身の御子イエスを私たちの身代わりとして十字架の上で血を流させ、その血の代償によって、私たちの罪を許してくださいました。そして、私たちを罪許された者として本来のエデンの園に住まわせ、本当の命を回復させようとされたのです。

 主イエスは父なる神によって定められた働きを終えて、復活により天の父の家に戻られました。十字架を負ってくださった主イエスは、愛をもって天において私たちを待っておられます。主イエスのおられる所は、本当の命のある所です。昇天された御子は、一人一人のために場所を用意して待っておられます。
 
命の源である神は、たえず人間の救いのために働いてくださり、いつも私たちに呼び掛けておられます。
 私たちは自分の方から、神を発見することはできません。私たちにできるのは、イエスによって示されている神の愛の呼び掛けに応じることだけです。神様を分かろうとするのには、主イエスの生き様を見、心を開いて主イエスの呼びかけに応えることです。それによって存在しておられる真実の神を知ることができます。

 聖書の神は、私たちを超越して絶対者なる唯一の神ですが、私たちとの交流を望む、人格的な神です。そして、私たちが本来の姿に立ち返るべく主イエスの愛を受け入れ真実の神に委ねたところに、神にある本当の命と平安が与えられます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3・16)とあるとおりです

 牧師の定年に至ろうとする今、私は心底思います。どなたもが独り子イエスを信じ、真実の神に依り頼んで主にある平安の内に生きていただきたく願うのです。
板橋教会牧師 鷲見達也

 

201410

「悲しみの預言者」
201410 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
(エレミヤ書31・31〜34)

私たちの人生には様々な局面があります。天災や人災によって、私たちのごく平凡な毎日さえ、一瞬にして破壊されることのある今日、神様の愛を信じ、示し続ける事は容易ではありません。しかし、信仰があるかないかで人生が大きく変わることを、聖書は示しています。

 例えば、旧約聖書には、王と預言者という対決の図式があります。歴代の王たちは、国を守ろうとするあまり、結果的にしばしば神から離れてしまいます。このような彼らは、『信仰の確信が得られず迷いの多い人生を送る人々の代表』と見ることができます。一方、それに命がけで意見する預言者達は、『神に従おうとする人々の代表』と言えるでしょう。

 神の言葉を真っ正直に取り次いだがゆえに、預言者たちは王や民から忌み嫌われるのですが、中でも、紀元前7世紀末から6世紀初頭にかけて活動したエレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれた人物でした。

 エレミヤは、堕落した祖国に滅亡を告げるのですが、その内容があまりに恐ろしかったため、口を封じようとする人々によって、彼はたびたび命の危険に曝されました。

 やがて祖国がエレミヤの預言通り敵国との戦いに破れ、神殿すら崩壊した時、エレミヤは一転して慰めの言葉を伝え始めました。人々が立ち直る気力も無いほど打ちのめされた時、神はエレミヤの口に希望の言葉を授けられたのです。
 「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう。」(エレミヤ29・12〜14)

 神はエレミヤを通してもう一つのお姿を現されました。それは掟を破れば罰が下るという、支配的で恐ろしい神のイメージではなく、涙を流しながら自分たちを罰し、愛を持って一人一人を正しい道に導こうとする父なる神の姿でした。
 この愛の神の姿をさらに極限まで示してくださったのが私たちの主イエスです。イエスは命を捨てて神の真実を示してくださり、人々に愛されている信仰をしっかり持つように呼びかけられました。

 イエスは自分を信じ、神の愛を受け入れた全ての人々に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(ヨハネ福音書8・31)と言われました。

 世の中は、「神が居るなら、なぜこのような悲劇が起こるのか」という問いかけで満ちています。災いが起きるたび、「神など居ない!」という嘆きと叫びが響きます。
 
 しかし、イエスの言葉にとどまると決心した私たちは、自分の感情に流されてはなりません。心の内に不信の嘆きや憤りが湧きあがろうとも、嘆き悲しむ人から厳しい言葉をぶつけられようとも、その苦しさ悲しさをイエスとともに受け止めるのです。イエスが十字架で血を流しながら示されたように「それでも神は愛だ」と踏みとどまるのが私たちの役目なのです。

 世間から「何を虚しいことを」と蔑まれる時、私たちは「悲しみの預言者」です。しかし、それが私たち一人一人の役割であり、それぞれの地に置かれた教会の役目でもあります。悲しみを肯定する訳ではありませんが、人が生きる限り、地上から悲しみがなくなることはありません。ただ、悲しむ人に寄り添うことは私たちにも出来るのです。

 神から離れた人々の傲慢さに警鐘を鳴らしつつ、個人的に関わる人々の悲しみをイエス・キリストにあって深く受け止めましょう。この10月は信仰にとどまる人としての自分を見つめ直す時にしたいと祈ります。
名古屋めぐみ教会牧師  朝比奈晴朗


201409

「人生に必要な荷物」

201409自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、
わたしにふさわしくない。  (マタイによる福音書10章38節)

引越しをしました。
荷造りをしていると、見慣れないものや不明の箱、懐かしい品々が出て来て、しばし作業する手が止まることがありました。それらは前回、引越しをしてから一切手をつけていない荷物でした。私たちは余剰な荷物をたくさん抱えて生きている現実を、引越しをするたびに思い知らされます。しかし、余分な荷物をすぐに処分出来るかというと決してそうではなく、また使うときがあるかもしれないと次に持ち越してしまう私がいます。今回の引越しで見いだした余分な荷物も、そのまま引越しの荷物となり、開けられないまま物置に入ることになってしまいました。

 私たちは人生を生きるにあたって、荷物を抱えていると言えるでしょう。生きるためにあれもこれも必要であると思えるため、日に日に私たちの人生の荷物は膨れ上がっています。それでも、余分な荷物を手放すことができず、ましてだれかと分かち合うこともできない私たちがいます。

 不必要な荷物はそこに残して、人生を新たに歩み始めるならば、その足取りはこれまでより軽くなり、その後の人生は生きやすくなるはずです。本当はそのことがわかっているのですが、人は重さを増して行くばかりの荷物に押しつぶされそうになりながらも必死になり、その足取りは重くなるのです。

 「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と言われています。主イエスは人生に必要な荷物としてあれこれ抱え込んでしまう私たちに、必要な荷物はただ「自分の十字架である」と明らかにしているのです。

 「自分の十字架」について考えるとき、私は自らの罪だけを思い描いていました。しかし、「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ローマ書6章11節)というパウロの言葉は「キリストに結ばれて、キリストの十字架に結ばれて、キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ことを教えています。つまり「自分の十字架」とは、まずキリストが担ってくださったものなのです。そしてその十字架を自分のものとして担って行く。私たちはこうしてキリストに結ばれて生きるのです。

 ある日の聖書日課で、次のメッセージが目にとまりました。
「『どんな時にも人生には意味がある。誰かがわたしを待っている。何かがわたしを待っている。その誰かのために、その何かのために、わたしには出来ることがある』。
 主イエスが言われた《自分の十字架を背負って》を考えるとき、このフランクルの言葉をわたしは思い起こします。自分の十字架とはけっして重荷のことではありません。主ご自身がその人のために備えてくださるものが自分の十字架です。それはわたしを必要としている誰かのために、またわたしを必要とする何かのために、主がこのわたしを用いてくださるためのものです(部分)」。(高橋誠・ディコンリー福音教団豊浜教会牧師)

 「自分の十字架」とは、自分のためのものでも、自分に課せられたものでもなく、「主ご自身がその人のために備えてくださるもの」であると言われています。 私たちのために主は十字架の死を遂げてくださいました。これによって私たちは、もはや自分の人生のために多くの荷物を抱え込む生き方から解放されたのです。そして今や主は、この私を通して一人でも多くの人々に、神の恵みを与えようと望まれているのです。これが私たちが担う「自分の十字架」です。 そしてそれは苦しみではなく、「自分が生きていることに深い喜びを感じる、真の生きがいのある歩みである」と言われているのです。「自分の十字架」とは、この小さく弱い私が主に必要とされているしるしです。そのためにキリストはまず十字架を負われたのです。このキリストに結ばれて私たちは、自分の十字架を担って歩み始めることができるのです。

 キリストの十字架に結ばれた「自分の十字架」が私たちには備えられているのです。キリストの十字架に結ばれて、このキリストの十字架に結ばれた「自分の十字架」は、私たちがだれかのために少しずつ担って行く、あらゆる人々に等しく与えられる神の恵みです。そしてこれこそ、私たちの人生に必要な荷物であり、その他の何ものでもないのです。
藤が丘教会牧師 佐藤和宏

 

2014.08.01

主にある平和」

201408「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15・9~12)

 日本福音ルーテル教会は宣教百年を期に8月の第1日曜日を「平和主日」と定め、特に平和を祈り求める時としました。
 さて、この日のために与えられた日課には「わたしの愛にとどまりなさい」、「わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という二つの命令が記されています。内容は同じです。平和を造り出すにはこれしかない、というのです。

 「隣人愛」についてイエスさまは教えてくださっているわけですけれど、戦争という歴史を持つ私たちは「隣人愛」という言葉に奇妙な違和感を覚えます。同じ宗教、同じ民族の人々のみを隣人として愛する時、そこには必ず異邦人を軽蔑し憎むという結果が出てくるからです。またその結果として今度はその人たちから憎まれるという悪循環が生まれることを私たちはよく知っています。私たちが腹を立てる、その人から、私たちは同じように憎しみを受けている者でもあるのです。イエスさまの時代もそうでした。サマリア人の譬はそのよい例だと思います。

 その悪循環を断ち切ったのがイエスさまの愛でした。「自分が愛したい人を愛する」、 「自分を愛してくれる人を愛する」のではなく、「自分を迫害する者」、「自分を十字架につける者」、「最後まで強情に自分に反対する人」に対する愛を、イエスさまは示してくださったのです。イエスさまが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と自分を殺す者のために祈られた時、新しい愛が示されたのです。

 このような素晴らしい愛を教えられているにも関わらず、この世界が平和であった時代はありません。世界という大きな視点だけなく、私たちの身近には目を覆いたくなるような出来事がひっきりなしに起こっています。

 しかし、私たちは今日、イエスさまの命令を改めて受けているのです。この時に私たちはこの命令を心の底からごまかさないで受け取りたいと思います。

 私たちは愛について教えられていながら、 真剣にそれを実行していません。世界の人々のために祈っても、 「あの人は別だ」、「あの事は別だ」と考えています。本気でこの命令を受け取り、本気で今私を憎んでいる人、私と遠い人、家族であれ、近所の人であれ、職場の人間であれ、何よりも教会の人、それらの人たちを「赦されているが故に赦す」、そのような歩みをもう一度取り戻したいと思うのです。自分の意見に強情に反対する人と忍耐強く対話をする者となりたいのです。世界の痛み、被造物の呻きの大きさからすれば、あまりにも小さな一歩かもしれませんけれど、ここから始めたいと思うのです。

 私は、その意味では教会という群れは、イエスさまからのチャレンジの中にあると信じています。教会とは何かということを聖書は明瞭に説明しています。「洗礼によりキリスト・イエスに結ばれ、 神の子とされた群れであり、もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も、自由な身分の者もなく、男も女もありません。キリスト・イエスにおいて一つなのです」(ガラテヤ3・26~29より)。 教会はイデオロギー、思想、民族、家族において一致するのではなく、キリスト・イエスに結びついていることにおいて一つであること、それが教会の一致なのです。

 主の祈りはキリスト教の小さな学校です。「われらに罪をおかす者を われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と心から祈るところに教会が生まれるのです。

 もちろん、それでもなお、世界の問題は尽きません。私たちもまた、「祈りしかなさない」と批判されることもしばしばです。しかし私たちの一人でも多くの方に福音をのべ伝えるという働きを、大海の一滴にすぎないと言うのをやめましょう。

 教会に来られる様々な方々と、いかにして共に歩むことができるかということに心砕き祈ること、そのような本当に身近な小さな一歩にイエスさまは期待してくださっているのです。イエスさまはおっしゃいます。「平和を造り出す人々は幸いである」(マタイ5・9より)。

大阪教会牧師 滝田浩之

 

2014.07.01

「根拠のない自信」

201407「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマの信徒への手紙8章35節)

 最近、朝のテレビ小説『花子とアン』で「根拠のない自信」という言葉を耳にしていくつかのことを思い出した。四年ほど前に東洋英和女学院(花子の母校)でのクリスマス礼拝に招かれた時のこと。保護者会の世話役であるお母さんから「子供たちはこの学校が大好きなのです。この学校は子供たちの中に根拠のない自信を育ててくれました」という言葉を伺った。そういえば三鷹のルーテル神大時代にも東洋英和出身の学生がいて、行動派の彼女がいつも「自分には根拠のない自信があるのよ」と語っていたっけ。東洋英和に限らず、学校や家庭というものは子供たちの中に「根拠のない自信」を育むという使命を持つものなのであろう。

 「根拠のない自信」を持つ者には「迷い」がない。いや、たとえ「迷い」があったとしても、その「根拠のない自信」のゆえに周囲を巻き込みながらも逆境を乗り越えてゆくことができるようだ。「自尊感情」がその人の「レジリエンス(回復力 復元力)」を支えているのだ。いかにも逆境に強かった故小泉潤牧師の生き方をも思い起こす。ふだんの日常生活ではあまり見えてこないが、いざという時には私たちが持つ「根拠のない自信」が大きく事を左右するのであろう。

 2011年の4月、大震災の後というタイミングになったが、『こどもへのまなざし』で著名なクリスチャン児童精神科医の佐々木正美先生を私たちの教会にお招きしたことがあった。先生はそこで子供たちの内に「根拠のない自信」を育むことの大切さを語られた。そのために「子供たちに溢れるほどの愛情を注いで、大いに甘やかせてあげて欲しい」と言われたのである。

 人を愛するためにはまず自分が人に愛されるという体験が必要となり、愛されることを通して子供たちには「根拠のない自信」が育まれてゆくのだという。先生は続けられた。「私たちは普通『根拠のある自信』を持っています。しかし『根拠のある自信』はその根拠が揺れ動くとガラガラと崩れてしまう。けれども『根拠のない自信』は根拠がないがゆえに決して揺れ動くことがないのです」。その実践に裏打ちされた温かい言葉は今でも私の中で一つの確かな声として響いている。
 
「根拠のない自信」という逆説的な言い方であるが、考えてみればそこにはやはり「根拠」があると私は思う。そもそも「自信」とは「自分に対する信頼」を意味するが、その「自信」の「根拠」が自分の「内」ではなく「外」にあって、それが「外」から「私」を支えているということなのであろう。そこでの「自信」とは「自分を支えるものに対する信頼」という意味となる。自らの外に自分を支える「確固とした足場・基盤」を持つということ。万物は揺らぐとも主の言は永久に立つ。自己を支えるそのような足場を持つことができる者は幸いである。

 キリスト教作家の椎名麟三は受洗の後に、「ああ、これでオレは安心して、ジタバタして死んでゆける」と言ったという。洗礼において主が私を捉えてくださった。罪と死との格闘の中で自分はどこまでもジタバタせざるをえない弱い存在。しかしそのような自分をキリストが捉えて離さないがゆえに、安心してもがいてよいという主の愛に対する絶対的な信頼がある。

 「我ここに立つ」と言ったルターも「キリストの現臨(リアルプレゼンス)」という基盤の上に立ち続けた。その基盤を「インマヌエルの原事実」(滝沢克己)と呼び、「神の〈まこと(ピスティス)〉」(小川修)と看破した先人たちもいる。

 「たとい明日世界が滅びようとも、わたしは今日リンゴの木を植える」というルター的な言葉も、また次のように語ることができたパウロの信仰も、確かにそのような「根拠のない自信」に裏打ちされていたと思うのは私だけではあるまい。 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・38〜39)。

 神の〈まこと(ピスティス)〉が私たちの信仰(ピスティス)を支えている。私たちに贈り与えられている「根拠のない自信」を共に喜び祝いたいと思う。

むさしの教会・スオミ教会牧師  大柴 譲治

 

2014.06.01

「ふりそそぐ主のまなざし」

201406 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。マタイによる福音書九章九節

 徴税人マタイはいつものように通りの収税所に座って仕事をしていました。そこをイエス様がお通りになりました。マタイはイエス様のお姿にいつ、気づくでしょうか。

 イエス様は直前の箇所で、中風の人を癒されました。自分で起き上がれない中風の人は、寝かされたまま友達にイエス様のところに連れて来られました。イエス様は中風の人に向かって「あなたの罪は赦される」という言葉で癒されましたから、律法学者の反感を買いました。「この男は神を冒涜している」。見ていた群衆は大騒ぎです。

 この騒ぎですから、イエス様は大勢の群衆に取り囲まれながら通りを歩かれたことと思います。マタイはいつ、イエス様に気づくでしょうか。マタイはいつ、イエス様の方に顔を向けるでしょうか。

 イエス様がこんなに近くに来てくださったのに、マタイは気づかないのです。気づいていても顔を向けなかったのかもしれません。マタイ自身にとって、イエス様は自分には関係がないと思ったのかもしれません。マタイは徴税人として自分が世間ではどう見られていたかをよく承知していました。自分の仕事は同胞に嫌われ、罪びととさげすまれている毎日。自分のことをだれかが心に留めてくれることは久しくなかったのかもしれません。

 このマタイに転機が訪れました。イエス様のたったひとことでした。
「わたしに従いなさい」。
 このイエス様のひとことで、マタイは人生が変わるのです。これまで何年と同じところに座っていたマタイは立ち上がってイエス様に従うのです。

 同じところに座りっぱなし。それはマタイが自分の力で、今の現状をどうすることもできないとあきらめていた心をあらわしているかのようです。毎日同じことの繰り返し。だれからも声をかけられない。だれからも頼りにしてもらえない。だれからも自分の存在を喜んでもらえない。かたくなにしていたマタイの心のカギをイエス様が開けてくださいました。
「わたしに従いなさい」。

 イエス様に従うということ、それは、今までマタイが自分の方にだけ向けていた心を、イエス様の方に向きを変えるということです。イエス様の方に心の向きを変えることを、マタイは自分の力でできませんでした。イエス様の方から心の向きを変えるように声をかけてくださいました。たった一言です。イエス様の一言には、マタイの生き方を変えるほどの大きな力、権威がありました。

 続く十章三節には、十二弟子のひとりとして「徴税人のマタイ」が数えられています。マタイはほかの弟子たちと同じように、汚れた霊を負い出し、病気をいやす権能を授けられました。イエス様の教えを身近に聞き、奇跡を見るのです。

 次にマタイの名前が聖書に登場するのは使徒言行録一章十三節です。マタイはイエス様の十字架の死と復活を目撃することになります。マタイもイエス様を裏切ったひとりでした。にもかかわらずマタイもイエス様のご復活、昇天、聖霊降臨を経験していくのです。 聖書は弟子としてのマタイの働きを詳しく記しません。けれどもイエス様の「罪のゆるし」の文脈で、マタイはイエス様のお声掛けによって立ち上がり、全く新しい生き方へと招かれた人として大事な位置に置かれています。

 雑踏の中でイエス様から声をかけられるまで、徴税人マタイのそばを数多くの人々が通り過ぎたことでしょう。けれどもイエス様はマタイのそばを通り過ぎることはなさいませんでした。
 「わたしに従いなさい」。
 

このイエス様のみ言葉をわたしたちも人生の途上で聞きました。わたしたちも心の向きをイエス様の方に変えるのです。わたしたちもイエス様の不思議な選びに与っています。
 「前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。」(詩編一三九編五節)

刈谷・岡崎教会牧師 宮澤真理子

 

2014.05.01
「遅れてきた夜明け」

201405「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」
ヨハネによる福音書20章25節

 十二弟子のひとりトマスは、この聖書に記された出来事から、「疑いのトマス」という不名誉な称号で呼ばれることがあります。しかし、中学校の授業などで弟子の話をするとき、このトマスは人気のある一人です。 心身ともに多感な成長期を迎えている彼ら・彼女らにとって、このトマスの「疑い」は非常に共感しやすく、「疑ってもよいのだ」と安心できるのでしょう。実際、このトマスは、後にイエス様の彼に対する言葉の中に「見ないのに信じる人々は幸いだ」(29節)とあるように、主イエスを実際に見たことのない世代の代表でもあるのです。

 「見ないのに信じる人々は幸いだ」…これは逆に、見えないもの、見たことがないものを信じることがどんなに難しいことかを表します。ましてや、トマスは自分一人だけ、主イエスの復活に居合わせることができなかったのです。
 このトマスはもともとかなり熱心な弟子であり、十字架前のイエスがエルサレム方面に赴かれる際には「俺たちもイエス様と行って、一緒に死のうじゃないか」(ヨハネ11章16節)と勇ましく他の弟子たちを鼓舞するようなところもある人でした。
 復活の主が最初に他の弟子たちに現れたときになぜトマスがそこに居なかったのか、その理由は記されていません。もしかするとトマスはその熱心さの分、主の十字架の衝撃、またその十字架の前から逃げ去った自分自身への後悔から、仲間に合流できずにいたのかもしれません。

 するとその間に、自分以外の弟子たちに、復活の主が現れた。他の弟子たちは「俺たちは主を見たぞ」と喜び、盛り上がっている。「イエス様の手の釘跡とわき腹の傷を見、そこに触れてみなければ、わたしは決して信じない」…この言葉からは、トマスの懐疑と共に、信じる輪の中に入ることのできない哀しみ、周囲の喜びから自分だけが弾き出されたトマスの強い孤独も感じられます。

 しかし、そこに再び現れた復活の主イエスは、他の弟子たちも共にいる中を、トマスただひとりに向かって語りかけられます。「手を伸ばして、あなたが言っていたとおり、私の釘跡、わき腹の傷に触れてみなさい」という主の言葉には、このときだけではなく、トマスが復活の主に出会う前、他の弟子たちから取り残されたように感じていたとき、しかしその彼の言葉が確かに主イエスに届いていたことを示します。トマス自身が誰からも見捨てられ、暗闇の中にいるように感じていたときですら、主は確かにトマスを心に留めてくださっていたのです。
 遅れてきたトマスの復活体験は、そのできごとを聞く私たちを慰めてくれます。トマスのことを覚えておられた主は、あなたのことも確かに覚えていてくださる。そのことを、直接主を見ることができない世代に伝えるために、このできごとは福音書に書き残されました。 復活が頭では分かっても、心が信じられないときがあります。また今もなお、恐れや不安が支配する場所があります。

 しかし、主は「すべてが終わった」と誰もが思ったあの十字架の死から、起き上がってくださいました。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち」…私たちの理性や常識、恐れや孤独、固く閉ざされた扉、それをものともせずに超えて来て、私たちと出会おうとしてくださる方が、確かに生きておられるのです。
 その方こそ「わたしの」主、どこまでも私たちを追い求め、心に留めてくださるお方です.

室園教会牧師 西川晶子

 

2014.04.01

「神はあなたの名を呼んでいる」

201404 使徒言行録10章39〜45節 コロサイの信徒への手紙3章1節〜5節 
ヨハネによる福音書20章1節〜18節

第四福音書と呼ばれるヨハネによる福音書は、他の福音書とは異なった視点からイエスを伝えます。日課もその例にもれません。
 この福音書にはいくつかの特徴がありますが、特に二つ紹介します。一つは、繰り返し起こる信仰(発生)の枠組みです。弟子たちを含むユダヤ人たちは「しるし」と呼ばれるイエスの不思議な業を見て信仰へと至ります。つまり「見る」ことが「信じる」ことなのです。福音書の大部分でこのパターンが繰り返されますが、最後には、復活したイエスを見て触れるまで信じないと言ったトマスに語るイエスの次の言葉が、信仰が「見る」ことからではなく「聞く・聴く」ことからはじまることを顕かにします。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は、幸いである」(20・29)。

 もう一つは旧約聖書、特に創世記1〜3章との関係です。私たちが、「つれづれなるままに」と聞いて『徒然草』を、「祇園精舎の鐘の声」と聞いて『平家物語』をすぐに思い浮かべるように、「初めに」で始まるこの福音書が同じ言葉で始まる創世記を聞き手・読み手の心に呼び起こしたであろうことは、想像に難くありません。ある種「本歌取」のように、創世記で語られる出来事を枠組みとしてイエスを語り直していると言えるかもしれません。

 福音書の日課は、最初のイースターの出来事を語ります。朝、まだ薄暗いうちにイエスの墓へと行ったマグダラのマリアは、墓が空であることを発見し、弟子たちに伝えました。ペトロともう一人の弟子はそれを聞いて墓へと急ぎます。墓へ着き中へと入った二人は、マリアの言った通りであることを「見て信じました」。二人がしかし、空の墓の意味するところ―復活であり、 イエスが神の子メシア(キリスト)であること―を信じたのではないことは、9節から明らかです。二人は家へと戻ります。マリアだけが残されました。

 一人になったマリアが再び墓の中を覗くと、そこには二人の天使がいました。そして振り返ると、イエスが立っていたのです。しかしマリアはまだ、イエスであることには気付いていませんでした。イエスはマリアを「婦人」と呼んで話し掛けます。マリアはそれでも気付かず、園丁だと思ってイエスと話しました。イエスは、今度は彼女を「マリア」と呼びます。すると、マリアはそれがイエスだと分かったのです。

 この話は創世記3章を想起させます。神のことばにではなく、蛇のことばに耳を傾け従ったアダムと女は、エデンの園で二人を探す神から隠れます。そして女は裁きのことばを与えられました。日課は逆に、園の中で姿を隠す神であるイエス(園丁)と、そのイエスを探すマリアとを伝えます。彼女は熱心にイエスを探し求めますが、見つけることはできませんでした。「婦人」と呼ばれるマリアは、イエスを探し求めていても実は、自分から姿を隠したエデンの園での「女」だったからです。しかしイエスは、マリアを名前で呼びました。曖昧な、誰でもいい「女」や「婦人」としてではなく、イエスは「マリア」に呼びかけたのです。マリアその人を呼び求めたのです。そして彼女には、福音のことばが与えられました。

 私たちの神は、最初のイースターにマリアにそうされたように、私たち一人ひとりを呼び、求めておられます。曖昧に「女」や「男」としてではなく、「あなた」を、あなたの名を呼んで求めておられるのです。私たちはともすると、日課のマリアがそうであったように、神を探し見つけることが信仰のすべてであるかのように錯覚していないでしょうか。

 しかしイースターの出来事は、私たちの信仰が、神がキリストを通して私たちの名を呼び、求め、見つけることであると伝えます。たとえあなたが見つけられなくても、神はあなたを見つけ、あなたを名前で呼んでおられます。 イースターの朝、私たちはその声を福音として聴き、信仰を与えられるのです。主キリストの復活、おめでとうございます。

日本福音ルーテル教会牧師 高村敏浩(フィラデルフィア ルーテル神学校留学中)

 

2014.03.01

「死と再生のドラマ」
201403「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」 (ルカによる福音書 十五章三十二節))

 『聖書』と言う本に魅せられて、もうかれこれ五十年以上も読み続けているが、未だに厭きないし、また未知の部分が余りにも多すぎて、神様からあと百年の命を与えられて読み続けたとしても、なお「読み足りない」だろうと思う。「聖書」は実に不思議な本である。

 旧約と新約を含む「聖書」の主題を一言で表現すれば、それは「死と再生」であると思う。聖書巻頭の書「創世記」は、「初めに神は天と地を創造された」と言う言葉で始まっているが、神が天地を創造する前の宇宙は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。これはつまり、「無」の世界を意味するのだろう。その無の世界に「光あれ」と光を創造した神は次々に諸々の物を創造されるが、これは「無から有の創造」である。つまり「無」の意味するところは「死」であり、「有」の意味するところは「命」である。神は「無という死の世界」から、「有という命の世界」を創造されたのである。

 アブラハムはどうであろうか。彼らには「子」を設けることができなかった。妻のサラは「不妊」であり、既に「年老いていた」。つまり、彼らが死ねば、彼らの命を繋ぐものは誰もいなくなる。その彼らが「子孫」が与えられる約束を聞くのである。アブラハムの人生は波乱に満ちたものであったが、約束通り「子(孫)」を与えられたのである。これもまた、子がいないという象徴的な意味での「死」から、子孫を与えられるという「再生」の物語なのである。

 モーセの出エジプトも然りである。奴隷状態である民とは、いわば「死せる民」であり、そこから脱出し荒野の放浪の後、約束の地に辿りつく過程は、まさに「死せる民」から「生ける民」への「死と再生」の物語である。ダビデも取り返しのつかない大きな罪を犯して一度は人間的な死を経験するが、悔い改めることによって、新しい人間として生まれ変わる(再生)のである。

 このように、聖書の物語は「死と再生」を語る。新約聖書の「放蕩息子のたとえ」でも示されているように、弟息子は放蕩により「死んでいたのに生き返った」と言う、死と再生のテーマが明示されている。聖書は、人間の死を罪の結果としているが、それは原初の人間アダムとエバの物語に示されているとおりである。アダムとエバは、罪を犯すことによって「死ぬべき存在」として、エデンの園の外で生きる者となったのである。

 死と再生の物語のクライマックスは、イエスの十字架と復活である。イエスの十字架はアダムの罪責を継承する私たちの罪を赦免することであると共に、実際日々に犯し得る罪をも赦すものである。私たちはイエスの十字架の死によって得られた罪の赦しを受けている者であり、これはまさに「罪によって死んでいた者」から、「赦されて義に生きる者」にされたということである。これは、私たちが「罪に死に、義に生きる」という、死と再生を経験することなのである。

 イエスは十字架で死ぬが、三日目に復活する。まさに、死と再生のクライマックスを迎える。陰府にまで下るがーそしてそこからは誰一人生還することは不可能であるにもかかわらずーイエスは生還するのである。全能の神の力に「不可能はない」。イエスの復活は、私たちに「死は終わりではない」ことを告げている。私たちはこの地上にあっては必ず死ぬが、それは復活するために死ぬのである。復活のために死ぬのであれば、死は恐怖でもなく、絶望でもない。死の苦しみは誰も免れないだろうが、復活(再生)のための死であるゆえに、希望を持って死ぬことができるのである。

 毎年「四旬節」を経て「復活祭」が訪れる。私たちはこの時期、イエス・キリストの十字架と復活に思いをはせながら、自分の人生の終わりを希望を持って見つめつつ過ごすのである。死のその先には、復活と言う命があるのだ! 

 『聖書』は、あらゆる「死」の状態にあるものに「命」を与え、再生させる『命の書』なのである

日本福音ルーテル鶴ケ谷教会・仙台教会牧師 藤井邦昭

 

2014.02.01

「イエスの激しい祈り」

(イエスは)ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。すると、天使が天から現れてイエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。(ルカによる福音書22章39節~46節)

 イエスは十字架につけられる前日、弟子たちと最後の食事をしました。その後、血の滴るような汗を流して祈ります。聖木曜日夜の出来事です。
 イエスが汗を流しながら祈られたのはゲツセマネでした。そこは旧約聖書にも出ているオリーブ山(ゼカリヤ14・2)のほぼ中央にあります。

 イエスはそこで「ひざまずいて」(ルカ22・41)祈り始めます。ユダヤ人は立って祈るのが習慣です。現在でもそうですが、特に大事な祈りになると立ったまま手を上にあげ祈ります。イエスがひざまずいて祈るのは極めて不思議な光景です。
 イエスの祈りは「汗が血の滴るように地面に落ち」(ルカ22・44)ると、ある写本が書き残しているように、極めて激しいものでした。ゲツセマネには「実を粉々に粉砕する油絞り器」の意味がありますから、イエスはまさにご自分の体を粉々に砕き、血を体の中から絞り出すかのように祈ったのでしょう。
 
 どうしてそれほど激しい祈りをされたのでしょうか。それを探る為に私は気づいたら十回もイスラエルに足を運んでいました。大半は個人で行きましたが三回はグループを引率しました。

 一九八七年だったでしょうか、グループ旅行の時、ゲッセマネの園の教会で、「今日は一日祈りの為に取っていますからここで思う存分祈って下さい。但し閉門が四時ですからそれまでには出て来るように」と言って各自自由に祈る時間を取りました。最後の婦人が出てきたのは四時ぎりぎりでした。何と六時間祈っていたことになります。涙ながらに激しく祈ったことがすぐ分かりました。眼は真っ赤、顔の形が変わったようにも見えましたが晴れ晴れしていました。「先生、イエス様は本当に私の為に汗を流しながら祈ってくれたのがわかりました」と喜びに満ち輝いていました。 私がイエスの祈りが私の為であったことを身にしみたのは何度も何度もここを訪れ、長時間祈ってやっとのことでしたが、彼女はたった一回でそれを体験したのでした。

 イエスが祈って下さることが本当に分かることは私たちの信仰にとって実に大事なことです。イエスが祈って下さるから私たちは救われます。世の中には私たちを神から引き離そうとする非常に強い力があります。毎日その誘惑にさらされています。イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」(ルカ22・40)と命じますが、弟子たちは誘惑に負けてしまいます。私たちも同じです。私たちは弟子たち以上に誘惑に負け、罪に負けやすい弱い人間です。このままでは救われません。イエスはそんな私たちを、一人や二人ではありません、全人類のためです、全ての人を救う為にこの世に来られたのですから(第一テモテ1・15)、全ての人の罪を背負っています。全人類の罪を一身に負っているのですから余りにも重すぎます。ですから祈りは激しさを増さざるを得ません。

 そして遂に「父よ、御心なら、この杯をわたしからとりのけてください」と訴えざるを得ません。「杯」は私たちの罪すべてです。神はその訴えを聞き入れません。聞き入れたら、私たちはいつまでも救われることはありません。イエスがどんなに苦しくても、悶えても、飲み干して下さったから私たちは今赦しの中で生きていられます。

 主イエスは私たち人間の罪を赦すために激しい祈りをされました。激しい祈りだからこそ習慣的な祈りの姿勢ではなく跪いて祈りました。そろそろ受難の季節に入り、ゲツセマネのイエスの祈りに出会います。この祈りはあなたを救うための祈りです。今年はそのことをいつも以上に身にしみて、イエスの前にひざまずいて下さい。

日本福音ルーテル賀茂川教会  高塚郁男

 

2014.01.01

「おめでとう」と交わし合う一年を

201401六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたの
である。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
ルカによる福音書 1章26〜28節

 あけまして、おめでとうございます。新年もよろしくお願い致します。また日本の風習に従うならば、喪中の中お正月をお迎えになった方もいらっしゃることでしょう。主の慰めをお祈り申し上げます。

 新年を迎え、ご家族、ご近所や知人との間で「おめでとうございます」という挨拶を交わされたことでしょう。教会も同じです。元旦礼拝で、あるいは新年の初めての礼拝で互いに「おめでとうございます」という言葉を交換されたことでしょう。教会の中でも外でも日本に暮らすキリスト者は、区別することなくこの挨拶の言葉を交わしますが、しかしそれには違いがあるのではないかと思います。

 すでに教会の暦はクリスマスを迎えていますが、主イエスの誕生の前には様々な事が起こりました。その一つはマリアへの受胎告知です。天使ガブリエルはマリアに「おめでとう」と告げました。それはマリアにとってはとんでもない事で、おめでたくもないものでした。でも天使はそれを「おめでとう」と告げたのです。もっとも、この日本語訳は適切ではなく、「幸いあれ」という程度の日常的な挨拶であったと指摘する神学者もいるようです。そうなのかも知れませんが、この言葉の次には「恵まれた方」と言っていますので、いずれにせよ「おめでたさ」を伝える挨拶であったことには変りありません。「おめでとう」という挨拶は、マリアにはやっかいで、余計なものを背負わされたという思いがあったでしょうし、よりによってどうして「私が?」というやるせなさを覚えたことでしょう。
では、どうして恵まれた者なのでしょうか。その理由は「主があなたと共におられる」からなのです。

 私は、「主があなたと共におられる」という言葉ほど重要な言葉はないと思います。天使の告げたこの言葉が耳にした人の中で結実し、「本当にそうだ」と実感した時にこの言葉は力を持つのです。その人を励まし、希望を与え、喜びと感謝をもって生きる力を与えて行くのです。
 マリアが幸いだったことは、お腹の中でみ子の成長を実感できたことでした。「主があなたと共におられる」という言葉が結実していたのです。初めの不安と動揺は次第に小さくなり、「おめでとう」と告げられた言葉を実感していったのです。
 新年を迎えた私たちにもマリアと同じように、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という祝福の言葉が語られています。ただ、私たちのお腹に神の子が宿ったのではありませんので、この言葉を実感することができません。でも幸いなことに、礼拝の際に与る聖餐がこの働きを担うのです。パンとぶどう酒にイエス・キリストがまことに現臨して下さっているのですから、それをいただくことによって、私たちもこの言葉を実感するのです。
 

「主があなたと共におられる」という祝福は、マタイによる福音書では「神は我々と共におられる」と記されています。祝福はマリアだけに向かうのではないのです。すべての人に語られています。ですから、教会は主のご臨在を互いが確認し合う群れであり、それを第一に礼拝で体験していると言えるのでしょう。

 この一年間も礼拝において牧師の説教が語られ、讃美と祈りが唱えられることでしょう。諸集会で聖書が読まれることでしょう。家庭集会や病床訪問においても同様です。主のご臨在をみんなが実感でき、「おめでとう」という挨拶の言葉がいつも喜びとなり、生きる力となり、宣教の励みとなるような皆さんの一年をお祈りいたします。

日本福音ルーテル東京池袋教会  立山忠浩

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