topimage
トップページ ルーテル教会とは 全国の教会 関連事業 るうてる法人会 諸活動・運動体

 

JELCニュースブログ
バイブルエッセイ
機関紙るうてる
JLERルーテル救援
アーカイブ
聖書日課
教会讃美歌
TNG次世代育成
お問い合わせ
サイトマップ

バイブルエッセイ

2013.12

「平和を求めてこれを追え」

いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」
ルカによる福音書  2章 14節

2013122020年のオリンピックの開催地が東京に決定しました。今から7年後の2020年、日本はオリンピックに大いに盛り上がるのでしょう。このオリンピックは「平和の祭典」と言われます。武器を手に戦うのではなくスポーツで戦うことにその理由があると私は単純に考えていたのですが、これは半分しか正解でなかったことをつい先日知りました。日本オリンピック委員会のホームページにあるオリンピックの歴史という項に「聖なる休戦」というタイトルがあり、そこには次のように語られていました。

オリンピックの聖なる休戦
 古代オリンピックにはギリシア全土から競技者や観客が参加しました。当時のギリシアではいくつかのポリスが戦いを繰り広げていましたが、宗教的に大きな意味のあったオリンピアの祭典には、戦争を中断してでも参加しなければならなかったのです。これが「聖なる休戦」です。
 当時のオリンピックがギリシア一国のプログラムであったこと、また選手の参加が半ば義務付けられていたこと等の違いはあるものの、およそ「戦い」と名のつくものの手を止め四年に一度集まり、競う。この休戦こそが「平和の祭典」と言われる理由となったのです。そしてこの「平和の祭典」であった古代オリンピックが終焉を迎えたのは393年、ギリシアはローマ帝国に支配され、ローマ皇帝の信仰したキリスト教に馴染まなかったためだと言われています。
 各地の教会、特にギリシア地方の教会に送った手紙の中で(おそらく)オリンピック競技を引用した伝道者パウロが、オリンピックを好んでいたか否か、観戦したことがあるのかないのか、聖書は何も語ってくれませんが、まさかキリスト教の信仰が古代オリンピックの幕を閉じることになるとは、彼も思ってもいなかったことでしょう。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」
 クリスマスの夜、羊飼いたちは主イエス・キリスト誕生の知らせと共に天使の歌声を聴き、幼子と出会い、そして彼らは賛美しながら帰っていきます。彼らは救い主の到来の喜びと共に、平和の訪れもまた声たからかに歌い、人々に告げ知らせたに違いありません。
 さて、冒頭に挙げさせていただいた説教題は1968年にプラハで行われた第三回世界キリスト者平和会議の開会礼拝で語られた鈴木正久牧師の説教題です。この中で氏は「イエス・キリストによって、世界と歴史の畑の中に、平和の種子が確実にまかれており、終末的には成就するものの、現実の世においても、人間のあらゆる怠慢や誤りにかかわらず、神ご自身の業として平和の種子は成長し広がっており、すぐ近くに迫ってきているとし、私たちの課題は、ここで与えられている神の恵みと賜物を空しくしないこと」であると語ります。

 「平和の祭典」がお題目となるのであれば、そこには空しさを禁じ得ません。「平和の祭典」が行われる日本の憲法から9条が奪われようとしている今日、そこには空しさを禁じ得ません。羊飼いたちの歌声が「みことば」としてではなく「歌詞の一節」としてのみ存在しているのならば、そこには空しさを禁じ得ません。「平和を求めて、これを追う」、鈴木師は「真理の言葉に固く立つこと、自由であること、大胆に生きること」この三つが互いに関連し、私たちが共に生きる道を探求し、追求させていくと語ります。パウロは私たちが教会に招かれた理由を「キリストの平和のため」であるとはっきりと語ります(コロサイ3・15)。
 「平和」が空しく聞こえないために、私たちは今この時、平和のみ子の誕生を喜び歌い、もちろん7年後もかわらず「平和を求め、これを追い」続けるのです。

日本福音ルーテル千葉教会 小泉 嗣

 

2013.11

「わたしが道である」

‥‥イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 ヨハネによる福音書14章1~6節

 201311最後の晩餐。その名の通り、この世で過ごす最後の食卓です。今日が最後という状況。私たちも経験することがあるかもしれません。
 たとえば、大切な人が旅に出なくてはならない。それも、ちょっとやそこらの旅ではなくて、骨を埋めるつもりで遠い国へ旅立つとか。その日を前にして共にする夕食。あるかもしれません。

 SFストーリーなら、明日、世界が終わるなどという状況も。昔なら、本当にそれに近かったのは、戦争に行く時ではないでしょうか。赤紙が来て、戦地へ赴く。「バンザイ、バンザイ」と手を振って。その日の前夜。大切な息子さんをお送りするお母さんたち。どんな思いで、その夜の食事をしたでしょうか。普段は食べられないようなご馳走も、何とか用意したかもしれません。
 ヨハネ福音書十四章は、その最後の晩餐の席上でのことです。いろいろな思いを胸にしながら、主イエスは弟子たちと夕食を共にされました。主はその席で「心を騒がせるな」とおっしゃいます。

 心を騒がせるな。それは、まさに弟子たちの心境を物語っています。彼らの心は、この状況の中で、騒いでいる。不安でいっぱい。
 でも考えてみれば、私たちの心というのはいつも不安に押しつぶされそうな時間がいっぱいです。一難去ってまた一難という言葉もあるとおり、私たちの心は、休まる暇がないのかもしれません。

 あの日、弟子たちは、どんな心境だったのでしょうか。
主イエスは言葉を続けられます。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。」心騒ぐのを落ち着かせるために、信じることを主は教えられました。

 暴風雨に悩まされていたときもそうです。湖上を歩く主を見ておびえる弟子たちに向かって、イエスは言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マルコ六章四十五|五十二節)

 最後の晩餐の席上で言われた「心を騒がせるな。わたしを信じなさい。」もこれとよく似ています。
 舟をひっくり返そうとする嵐ばかりを見ていると、心は騒ぎます。明日でおしまいだ、これが最後の晩餐だと思うと、心が騒ぎます。でも、主はそこでおっしゃる。「安心しなさい。わたしは場所を用意しに行くのである。あなたがたと一緒にいるために。信じなさい。」と。

 そこでトマスは口を挟みました。「どの道かわかりません」。「電車通り沿い、熊商前を過ぎると、左に健軍神社の鳥居が見えます。これをくぐってすぐ左の坂を上ると、右に見えてくるのが神水教会です。」トマスも、そのくらい分かりやすい道案内をして欲しかったのでしょう。

 しかし、それに対してイエスははっきりとおっしゃった。「わたしが道である!」と。
 道とは、何かと何かをつなぐものです。二つの間に溝があって渡れない。そこに両者をつなぐ橋を通せば大丈夫。歩道橋ができる。地下道ができる。それで渡ることができる。

 父なる神と私たちの間には大きな隔たりがある。行きたくても行けない。もしもそれがつながるとすれば、そこにどんな橋が架かるのか。どんな道が通るのか。

 「わたしがその道だ」とイエス様はおっしゃいました。心配するな。その橋になるために、わたしは今から父のもとへ行く。そして、あなたがたのために場所を用意して帰って来る。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい、と。

 へその緒でつながって生まれてきた私たちですが、死を迎えるときは、孤独です。
 でもそこで思い起こしたい。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」との御声を。それは、道となって私たちを父なる神のみもとへと導いてくださる主の御声です。「恐れるな、わたしを信じなさい。わたしのいる所に、あなたがたもいる。」
 道なる主を、命なる主をご一緒に信じて、歩んでいきましょう。
 日本福音ルーテル神水教会 角本 浩

2013.10

「神様の恵みによって弟子となる」

201310「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。…」
ルカによる福音書14章25~33節

 ある安息日、イエス様はファリサイ派の議員の家に招かれて食事をされました。食事を終えてその家を出られると、大勢の群衆が一緒に付いてきました。そこで、イエス様は振り返って彼らと向き合い、弟子であろうとする者の覚悟を語られます。
 今、イエス様はエルサレムへの旅の途中です。それは十字架に向かう旅です。十字架の死を経て、復活し、天国へと帰っていかれたイエス様は、エルサレムへの旅の途中、折に触れ、天国への旅の心得を教えてくださいました。

 旅の秘訣は、「荷物は少なく、身軽に」と言うことですが、今日、イエス様は「自分の十字架を背負ってついて来る」ようにと言われます。これは難題です。ですから、「腰を据えて計算」するように、「腰を据えて考えて」みるようにと教えてくださいます。
 「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら・・・」とは実に厳しい。イエス様は、家族の係累をあげつつ、父から始まって、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命にまで及んで、それを憎み、拒否することを要求されます。「家族」の全員で、一人の例外もないのです。これができないなら、イエス様に従う者としてはふさわしくないのです。
 これは、一人ひとりの中にあるエゴイズムへの警鐘、挑戦です。家族のエゴ、国家のエゴ、人類のエゴがあります。それはどんなところにも顔を出しています。神の国で生きるために、エゴイズムとの、まことに厳しい、妥協することのない戦いが求められます。それは、父なる神様のお心に従って、すべての人を救うために、ご自身を十字架に渡されたイエス様の生き方そのものでした。
 今、イエス様は、自分の十字架を負って従って来るのでなければ、わたしの弟子ではありえないと断言して、イエス様の弟子であることを、つまり、ご自分と同じように生きることを弟子たちに、愛する者たち、私たちに期待されたのです。
 「自分の命を憎み、自分の十字架を背負ってついて来る」よう教えてくれるイエス様は、大切な家族、そして、身近であれば身近であるほど心通わせる仲間に対してなおも、私の主体性、自主性、自由を保つことができるかと問うておられます。
 「愛には恐れがない」とヨハネは教えてくれましたが、そのように、本物の愛はすべての恐れ、委縮から、私たちを解き放し、自由にします。それと同時に、真実の愛は、最愛の者に対しても、抵抗する、あらがう力を持つ者とします。
 イエス様は「まず腰を据えて」と言われます。それはイエス様に従う覚悟があるかどうか、そのために一切を捨てる覚悟があるかどうか、前もって計算し、じっくり考えなさいということでしょう。人生について、将来について、真剣に考えるべきです。しかし、思い悩んではいけません。

 弟子たちは、すべてを捨ててイエス様に従いました。しかし、ある時、ペトロはこう言いました。「この通り、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と。ペトロは何もかも捨てて従っていたつもりでしたが、どっこい、自分自身は捨てていなかったのです。 結局、私たちも、どこまで行ってもそうなのです。自分を捨てきれないのです。それでもいいのです。そのままでイエス様の十字架のもとへ行くのです。イエス様のもとに、自分の十字架を抱えて行くことが許されています。
 イエス様の厳しい言葉は、裏を返せば、神様の恵みがすべてであり、それだけを頼みとすればよし、他のものは一切必要無しとのよき知らせなのです。神様の恵み、慈しみによってのみ、私たちは救われ、今日も生かされています。

 日本福音ルーテル小石川教会 徳野昌博

 

2013.09

「隔てを越えてゆくため」

201309「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
エフェソの信徒への手紙 第2章14〜16節

 「世界の為政者の皆さん、いつまで、疑心暗鬼に陥っているのですか。威嚇によって国の安全を守り続けることができると思っているのですか。」「信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を決断すべきではないですか。」 広島市長は今年の平和宣言において穏やかに、しかし、厳然と呼びかけました。

 私はこの言葉に、聖書が呼びかけてきた平和構築への可能性を聞く思いがしました。威嚇ではなく対話を重ねて行くこと。それは為政者のみならず、他者との関わりに生きる私たちの誰もが大切にしなければならないことでしょう。それぞれの経験や立場を絶対的なものとするのではなく、その間を隔てる壁を乗り越えて、互いに尊重し学ぶ関係をつくっていくこと自体が平和への道なのだと思います。

 エフェソの教会に連なる人たちと当時のユダヤ人キリスト者の間にも、「律法」ゆえに互いを遠ざける現実がありました。また、ユダヤの人々が神殿を大切に思うほど、他者を排除しその純粋さを守るために自分たちと「異邦人」との「隔ての壁」の維持を重要視してしまうことにつながりました。このことは、形を変えながらも、現代の私たちの社会に巣くっているのではないでしょうか。人種や民族、国籍、宗教、性別、心身の状態、性的指向、社会的地位などで自分との違いを生きる存在に不寛容な思いを持ち、対立し、ともすれば排除しようとしてしまう。それは人類が普遍的に抱く闇といえます。
 だからこそ神が「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」、「両者を一つの体として神と和解させ」、「敵意を滅ぼ」す必要があったのです。そしてそれは、キリストの十字架によって、神自身が痛みを負うという赦しの業によってもたらされました。

 文字を持たないアイヌの口伝承ユカラを文字化し、日本語訳し「アイヌ神謡集」として世に送り出した知里幸恵という人がいます。1922年の夏、金田一京助宅で知里が「アイヌ神謡集」の出版準備のために過ごした三ヶ月は、地上での最後の時間となりました。知里は校正を全て終えた晩に心臓疾患により短い生涯を閉じたのです。19歳でした。

 知里がその命を削るようにして編纂・翻訳した「アイヌ神謡集」とその序文は、雄大で美しく清らかな内容もさることながら、その生きる姿の熱さ力強さで人の心を激しく揺さぶります。それは、知里が生まれたアイヌ民族の、物語の紡ぎ手と受け手とが文字の受け渡しではなく、ことばを行き交わすことによって育まれてきたことと無関係ではないと思います。この物語は、受け手を巻き込み、受け手も共に紡ぐ者とし、さらに受け手を伝え手として動かしていく。そうやって物語とその物語を生み出した自然の豊かさと厳しさ、それと共に生きる恵みが届けられ、自然と人、カムイ(神)とアイヌ(人間)とを結びあわせていくのです。

 そのようなアイヌの言葉や生き方を失わせる原因となった和人に対して、それを伝えるべく知里が日本語訳に取り組んだことは、まさに知里が「敵意という隔ての壁を」越えて行こうとすることです。知里の物語はアイヌと和人とを結びあわせる取り組みでもありました。

 知里にとってもう一つの大切な物語がありました。それはキリストの物語でした。虐げられ傷つけられている人を訪ね、救いを告げ、共に生きる。文字は残さずとも、語る言葉と生き方を通してその愛を伝え、それを受け取る人に人生の新しい一歩を踏み出させる力を与え、神と人を結び付けていくキリストの物語に、知里は幼い頃からその心に響きを与えられてきました。知里はこの物語を熱心に求め、受けとり、この物語に動かされてキリストに従う道、隔ての壁を取り除かれることに信頼する道を歩んだのです。

 知里の終焉の地となった旧金田一宅跡の隣に今、本郷教会が立っています。ことばが人を生かす、アイヌの物語とキリストの物語。知里が生かされ、知里が担った物語を現代に結ぶ役割を託されたと受け止め、数年来、召天記念日にあたる9月18日に、記念会「シロカニペ祭」の会場として用いられています。
 キリストがその十字架において隔ての壁を取り壊したのは、私たちが互いの間にある隔てを越えて生きるためです。それは簡単なことではありません。しかし、キリストが砕いた壁の残骸を踏みしめて共に生きることへと私たちは招かれているのです。
日本福音ルーテル本郷教会 安井宣生

 

2013.08

「信仰の完成者イエス」

2013.08「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」
ヘブライ人への手紙 12章1節、2節 

アメリカ留学中に、こんなジョークを聞きました。 
 ある教会で、照明の電球が切れた。牧師が管財係に「電球を新しくしておいてくださいますか」と頼むと、「え?何か変えるんですか?」と嫌な顔。そこはルーテル教会だった・・。

 笑えましたでしょうか?ルーテル教会は、電球一つでさえ変化することを嫌がる、という意味です。しかしながら、人々の価値観やライフスタイル、人口構成や経済状況など、教会を取り巻く状況は日々、変化しています。これまでどおりの形で集会を続けたり、建物や牧師給を支えることが困難な教会は増えています。そんな中、ミネソタのルーテル神学校では、開拓伝道について学ぶクラスを受講しました。必ず出てくる神学生からの質問は、「今ある教会を保つだけでも大変で、閉鎖や合併していく時代なのに、なぜわざわざ教会を増やすのか」というものでした。そこで出てくるキーワードは、church cloning(これまでと同じものの複製を作る)なのかchurch planting(新しい教会をつくり上げる)なのか、でした。

 あるアメリカ福音ルーテル教会の教会では、一階の礼拝堂で伝統的なルーテル教会の礼拝が行われ、その同じ時間に、地下では別の集会が礼拝をしていました。この礼拝は、私たちが想定している教会のスタイルとは少し違います。クラスでは賛否両論あって、議論が白熱しました。この教会は、これまでの伝統的な形を少し変えてでも、社会の中でイエス様の弟子として生きることを大切にしています。だから、人々に仕えるために実際に出かけていき、行動していました。ほかにも、建物を持たない教会、弱い立場の人々と歩む教会と、このクラスの卒業生たちがユニークな宣教をしていました。

 現在の日本で教会が直面する宣教の困難の中に、受洗者を生み出すこととともに、受洗者が教会生活を続けることの難しさがあります。洗礼を受けた後、2~3年で教会を「卒業」してしまうのです。そこで私たちに問い直されているのは、ただ数字上の教勢ではなく、イエス様の弟子を生み出し、育てることです。

 ヘブライ人への手紙は、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と励まします。この手紙が書かれたとき、迫害の中で信者たちが信仰を守り抜くことがとても困難な時でした。そんな中で、イエス・キリストを信じる信仰にとどまることを、著者は競技場で走る競争にたとえています。しかもその競争は、「自分に定められている」競争です。「自分で定めた」のではありません。ですから思いわずらいや突然の状況変化も起こります。けれどもその競争を私たちは一人で走るのではなく、先導者であり同伴者であるイエス様とともに走ります。そこには、私たちを導き、信仰を完成させてくださるのはイエス様であるという信頼があります。

 つまり、私たちは自分自身で「完成」してしまうのではありません。イエス様の弟子として、いまだに途上にあり、歩み続けている者です。教会も同じなのではないでしょうか。地上にあり、今なお完成に向かって歩み続けている教会は、私たち自身が「完成形」を定めてしまうとき、「教会の維持」が目的になってしまいます。けれども私たちは、目的への途上にあり、整えられていく過程の中にあります。道の途中であるからこそ、試練もあり、変化も起こります。

 慣れ親しんだスタイルが変化していくのは、時には寂しく、時には戸惑います。けれどもイエス様の十字架の道に従っていくこととは、私たち自身も、自分にとって慣れ親しんだ心地よい教会を維持するだけでなく、人々とともにある、現代社会の中での教会へと整えられていくことではないでしょうか。イエス様の十字架の歩みは復活へと続いています。教会の宣教には、困難な時になお希望が約束されています。復活へと続く道を、信仰の創始者また完成者であるイエス様が、導いてくださっています。宣教が大胆に前進するように祈り求めようではありませんか。
日本福音ルーテル新霊山教会 後藤由起

2013.07

「途中の出来事」

201307「『費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 ルカによる福音書第10章36~37節

 聖書は、よく知られている「善いサマリヤ人」からのみことばです。しかし、よく知られているこの箇所を読むたび、私たちは、自分の生き方を、神様に問いかけられ、ふり返るように導かれます。毎日、忙しく過ぎる日々ですが、日常の出来事の中、立ち止まって、「隣人」とはだれか、考えさせられます。
 イエス様のお話は、道を行く途中の出来事です。まさに「途中の出来事」です。

 「サマリヤ人」とは、ガリラヤとユダヤに挟まれた地方で、昔から異教的慣習になじんでいました。そして歴史的には特にアッシリアの侵攻以降、雑婚や異教などが入り込んでいました。純血を大事にするユダヤ人からは嫌われていました。律法の純粋性を保とうとする人は、交わりさえしなかったのです。しかし、そのユダヤ人が敵視してやまなかったサマリヤ人が、サマリヤ人こそが、途中出会った傷ついた旅人の心によりそい助け、「ほんとうの隣人」になったと言うイエス様のお話。サマリヤ人のその介抱の仕方は、本当に大変行き届いた心のこもったものです。

 このたとえ話は、律法の専門家がイエス様へ問いかけたことではじまりました。「わたしの隣人とはだれですか。」 実はこう問いつつ、彼には自負がありました。ユダヤ人であり、律法の専門家の彼は、律法通り、愛する対象を自分の同胞であるユダヤ人のみ、または、律法を守っている人に限定しつつ、自分はそのことは守っているので、その「隣人を自分のように愛している」、そのことで、自分は正当化されると思っていたでしょう。

 愛する対象を自分の好みで限定するなら、愛することはやさしいかもしれません。自分の好みは変えないで、愛する対象を変えるだけ。しかし、このイエス様が話したたとえの意味は、[愛はおきて(律法)を超え、民族、階級を超えて、どのような人もしりぞけないこと]を教えておられます。イエス様は、すべての人の隣人になられたのです。私たち、すべての罪人の身代わりとなって十字架にかかられたのです。

 牧師を子育てのために休職し、また復帰を待つ間、東海教区福祉村にある児童養護施設「まきばの家」で、パートタイムの保育士として働きました。幼児棟の子どもたちとの日々は、一緒に森を歩き、子羊に餌をあげました。虐待やネグレクトなど、計り知れない苦しみ・寂しさを通ってきた子どもたちだけれど、小さな体が大自然の中で、少しずつ元気になり成長する姿に感動しました。日々のなにげない生活、衣食住を頂き、感謝することで、傷が癒されていく。「生活がいやし」である生活を学びました。これからの牧師としての私の心にかけがえのない経験を頂きました。

 2年ぶりに東海教区に帰り、子どもたちにも、久しぶりに会いました。近づくと「ふみこさん?」と声をかけてくれとてもうれしかったです。その子は幼稚園に通うとき、私の作った(上手でない)「通園バッグ」をうれしそうに肩から掛けてくれていました。身長も伸び、りっぱな小学生になっていました。

 過ぎ行く毎日の日々ですが、私たちは神が出会わせてくださる「人と人」の出会いの中、日常の途中の出来事の中にでも、隣人の痛みを共感するとき、助け合って、支えあって生きていきたいものです。イエス様が教えた本当の隣人愛に、いつもこの聖書で示していただきましょう。

日本福音ルーテル栄光教会 内藤文子

 

2013.06

「素直に叫ぶ―主よ、助けてください―」
 マタイによる福音書14章22~33節

201306 イエス様の弟子の中で、ペトロという人がいます。バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂という名前も、彼のことを指しています。これは、イエス様がペトロに教会の権威をお与えになったという聖書の記事に由来するのですが、このようにペトロは弟子たちの中でもリーダーとして立てられている人物なのです。

 イエス様の弟子、その中でもリーダーですから、きっと立派な、信仰深い人物であるかのように思ってしまいますが、福音書が伝えるペトロの姿は、私たちが思うような所謂“立派な信仰者”とは少し違います。福音書が伝えるペトロの物語で、個人的に特に印象的なのは、イエス様の弟子になる召命の場面、イエス様のことをメシアであるとはっきり言った場面、それから逮捕され、引かれていったイエス様のことを知らないと言った場面、そして、湖に沈んでしまう場面です。今回は、この湖に沈んでしまう物語から聞きたいと思います。

 イエス様に従い、イエス様はメシアであると信仰告白する姿は立派に見えますが、福音書はそれだけではなく、ペトロの弱さも伝えているのです。普通なら私たちは、自分の弱さや負い目を人に伝えていこうとはしません。むしろそれを隠そうとしたり、言い訳したり正当化したりして、認めようとしません。人に知られたくないのです。ですが聖書は、弟子のリーダーの弱さを、信仰者のモデルの負い目を伝えているのです。それは、この弱さを持った人間の姿こそ、信仰者の本当の姿であるからです。私たちが抱く立派な信仰者の姿、「こうありたい」と思うあり方は、波も風も恐れず、水の上をただ信じて歩いてイエス様のところまで真っ直ぐ進むような姿ではないでしょうか。確かにそのような方は立派ですし、実際におられたら心から尊敬します。できれば私もそうありたいですし、そうなるために努力したいと思います。ですが、私たちは誰もがそのように強いわけではないのです。私たちの信仰の現実とは、強い風や波に襲われるとすぐに沈んでしまうようなものなのです。

 イエス様に近づきたい、「来なさい」と招いて下さり、歩けるようにしてくださったイエス様の呼びかけに応えて立派に歩んでいきたい、導きを信じて堂々と歩みたい、誰もがそのような思いを抱くでしょう。ですが、実際に歩みだしてから気がつくのは、自分は不安定な水の上を歩いていること、自分の周りでは今までと変わらず強い風が吹き続けているということです。ついさっきまで自分が前に進むことを邪魔していた風や波は、イエス様に呼ばれた後も全然止んでいないし、むしろさっきよりも危険な場所に立たされているということに気がつくのです。そのことに気づいたとき、私たちは沈んでしまうのです。私たちがイエス様を求める思いは、暗く、深い湖の中に沈んでしまうのです。

 私たちの信仰を、私たちごと湖に沈めてしまう風や波は、本当に様々な仕方で襲ってきます。大きな災害であるときもありますし、人間関係や、争いや、病気や、孤独…本当に、「何故だ」と思うような仕方で、私たちを襲います。ですが、そのように沈んだときが、私たちの信仰の歩みの終わりではないのです。湖に沈んだペトロをイエス様が引き上げてくださったように、私たちが沈んだときも、イエス様は近づいてきて私たちの手を掴み、引き上げてくださるのです。

 ペトロは沈みながら叫びました。「主よ、助けてください」と。彼は、自分の力で立とうとせず、でも諦めてしまうこともせず、もがきながら叫ぶのです。「主よ、助けてください」と。この箇所が伝える信仰者の姿とは、このような姿です。立派に水の上を歩ききってみせる強さではなく、沈みながら、もがきながら、みっともない姿かもしれませんが、それでも助けを叫ぶ、そのような姿なのです。私たちが信じるのは、イエス様の呼びかけと、イエス様が私たちの手をしっかりと掴んでくださる、あるいは今まさに掴んでくださっているということなのです。沈まない信仰よりも、助けてくださることを信じて叫ぶことが大切なのです。
 私たちは沈みます。どこかで必ず。ですがイエス様はそのような私たちの手を掴み、「なぜ疑ったのか、でも、もう大丈夫だ。安心しなさい、恐れることはない」と、語りかけてくださるのです。そして私たちをより深い信仰告白へと導いてくださるのです。
 これを読んでくださっている皆さんの手には、既にいくつもイエス様に掴まれた跡があるかもしれません。これからつく方もおられるでしょう。私たちの信仰の弱さの証であるように見えるその跡こそ、イエス様が私たちと共にいてくださっていることの証拠です。イエス様は、私たちの弱さを知っておられます。その弱さに働きかけてくださいます。安心して行きましょう。
日本福音ルーテル甲府教会・諏訪教会牧師 市原悠史

 

2013.05

「祝福しながら彼らを離れ・・・」


「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」 ルカによる福音書二四章五十~五三節)

201305 与えられました聖書の箇所は、ルカによる福音書の最後のところです。イエスさまがご復活ののち四十日の間弟子たちに現われてくださり、神の国について教え、そののち彼らを離れて天に上げられ、栄光の座につかれました。今日はその天に上げられたときのみ言葉を皆さまと共に聴きたいと思います。

 この聖書の箇所ですが、ご年配の皆さま方が以前に親しんでおられた口語訳聖書と比べてみますと、いくらか違ったところがございます。例えば51節の〔天にあげられた〕のところや、52節の〔イエスを伏し拝んだ〕のところが、口語訳では[かっこ]に入っていたことをご記憶の方もおられると思います。なぜなら、伝えられている有力な写本の中に、これらの言葉があるものと、無いものがあったからなのです。
 
主なる神さまは、時にまことに驚くべきことをなさいます。二十世紀も半ばになって、エジプトの中央部の砂漠の町パバウの近くで、新約聖書のパピルス断片が見つかりました。「パピルス75」と名付けられたその断片は、炭素14による年代測定で、およそ西暦二百年頃のものとわかりました。ずっと砂漠の砂の中に眠っていて、現代になって私たちの目の前に、より古い、より原本に近い写本が見つかったのです。この聖書の箇所も、その「パピルス75」の発見によって、より原本に近い内容が分かるようになった所です。今私たちが用いております新共同訳聖書にはその成果が反映されています。

 初代教会の頃、ローマ帝国の迫害はそれはそれは厳しいものでした。聖書が見つかれば直ちに焼却されました。ですから、新約聖書の原本はむろんのこと、ごく初期の聖書の写本もほとんどが失われてしまっているのです。しかし当時のキリスト者たちは、洞窟や地下などの暗い部屋の中で、小さな灯をたよりに聖書を書き写しました。その一つが「パピルス75」(写真左)なのです。

 筆舌に尽くし難いほどの厳しい迫害の中で、当時のキリスト者たちの宣教のエネルギーはいったいどこから与えられたのでしょうか。その原点とも言うべき聖書箇所の一つが、いま私たちに与えられているみ言葉ではないでしょうか。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と書かれています。

 復活の主は、弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行かれます。50節には「彼ら」と書かれていますが、男性の弟子たちだけでなく、ガリラヤから主につき従ってきた女性の弟子たちもいたことでしょう。主は両手を上げて、弟子たちを祝福してくださいました。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられて行かれました。何と感動的な場面が描かれていることでしょうか。

 すこし前、十字架の出来事のおりに、男の弟子たちはイエスさまをおいて逃げ去りました。何か失いたくないものがあったのでしょう。そしてユダヤ人たちを恐れ、隠れていました。しかしながら、そんな彼らのもとに復活のイエスさまの方から近づいて来て下さいました。み言葉を通して弟子たちの心の目を開き、さらに「あなたがたに平和があるように」と弟子たちを祝福して下さいました。罪赦され、救いと祝福が与えられた喜びに、弟子たちは心から満たされておりました。

 主が祝福してくださる。そして弟子たちがほめたたえる。原文では、実はどちらも同じ言葉なのです。天からの祝福と地からの讃美が響き合います。「祝福しながら・・・」と書かれています。これは「ずっと祝福しつづけながら」という意味です。復活の主はいかなる時も、いつも私たちと共にいて下さいます。主はいつも私たちを祝福していて下さいます。パウロはそのような幸いを、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ二章二十)と表現しました。
 主の豊かな祝福をいただきながら、主の証し人の一人として共に生かされてまいりましょう。

日本福音ルーテル神戸東教会 乾和雄

 

 

 

2013.04

「一人一人の魂の名を呼ばれる方に向き直って 」
 ヨハネによる福音書20章11節〜18節

201304 イースターおめでとうございます。3月31日の復活祭の日曜日にはお一人お一人の方がいろいろなかたちで復活祭の日曜日を過ごされたと思います。教会で礼拝を守りその後、愛餐会を楽しまれた方、礼拝の中で受洗された方、今年はどうしても教会に行くことができず一人で祈っておられた方などいろいろな方がおられたと思います。毎年迎えるイースターですが、この日を迎える私たちの思いや迎え方は毎年違います。
 私もイースターのことを思い出してみると教会学校に通っていた私はイースターの朝、近くの公園で行われる卵探しがとても楽しみでした。やがて教会学校の先生になってから卵を隠す側になったとき、生徒だった自分がどんなにわくわくして卵を探していたかを思い出しながら隠し、「ヨーイドン」のかけ声で楽しそうに走り出す子どもたちの笑顔を見ていました。その反面、隠した卵を狙うカラスとも勝負していました。
 大人と言われる歳になってからも毎年おとずれるイースターという季節はいろいろな思いを運んで来てくれたように思います。
 このように毎年毎年やって来るイースターの日ですが毎年毎年イエス様が復活されるわけではありません。イエス様が十字架に掛かられ息絶えられ三日目に復活されたのは一度だけです。しかし、そのイエス様の復活、そして命への道の意味を受け取る私たちの心や状態は変わります。幼い頃の自分にとってのイースター、昨年の自分にとってのイースター…、変わって行く自分を責める必要はありません。私たち一人一人は成長し変わっていくものです。しかしイエス様の復活はただ一度だけの真実なのです。
 今、与えられました聖書の箇所はよくイースター礼拝でも読まれる箇所です。この箇所を読んで思い出した一つの思い出があります。それは私が幼い頃、母方の祖母の家で毎年、親戚一同が集まり行われた家庭礼拝のことです。礼拝は聖書朗読や難しい(そう感じていました)お話、賛美,祈祷が行われました。賛美はその場で賛美歌の番号が決められておじたちかおばたちの誰かが初めの音を出すと皆が一緒に自分のパートを歌い出しそれはそれは素敵なハーモニーを伴奏も無しで歌うのでした。少し古い例えですが混声のダークダックスでした。その美しいハーモニー以上に私が好きだったのは祖母のお祈りでした。祖母が祈っている内容はまだ私には難しかったのですが祖母は必ず家族一人一人の名前をあげて祈りました6人いた自分の子どもたちの名前はもちろん、その配偶者と子どもたちの名前まであげて祈るのです。今思うととても大人数でした。長い長いお祈りの中その場にいない父や兄たち姉の名前そして次に自分の名前が呼ばれます。どんなに難しい長いお祈りでも自分の名前だけはわかります。それが今、この聖書の箇所を読んだときに思い出されました。
 今日、復活されたイエス様へと心を向けます。神様であるイエス様も同じではないでしょうか。家族である全ての私たち一人一人の魂の名前をいつも変わることなく呼んでおられます。ただ、その声を神様であるイエス様からの声であることを受け止め,今のそのままの自分で応えること、すなわちイエス様へ向き直って返事をすることが今の自分を新たに生きる、復活するという意味になるのではないでしょうか。
 自分の今を神様であるイエス様の価値観に委ねるとでも言うのでしょうか。神様であるイエス様が全ての一人一人を呼ばれておられます。なぜ、私なんかを呼んでくださるのでしょうか。それはただ私たち一人一人を必要とされているからです。その声に応えるのは私たち一人一人の自由です。 
 全ての一人一人がイエス様から召され必要とされています。こんな私じゃダメだわとかもっと勉強してからとか理由をつけて神様であるイエス様の方へ向き直れないのは自分のこだわりや気持ちだけなのです。
 神様であるイエス様は全ての一人一人の魂の名前を呼ばれ待っておられます。
日本福音ルーテル教会東教区付牧師  伊藤早奈

 

2013.03

「悲しみに寄り添う主イエス」

ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 ヨハネによる福音書13章8節

201303 三月は北国でも春の音信を感じる季節です。教会の暦では、主イエスの受難から復活へと思いを傾けるときとなります。 主は十字架の苦しみの前日、弟子たちと共に夕べの食卓へ着かれます。「最後の晩餐」のときです。そして、その席で思いがけないことを主イエスはなさいます。12人の弟子たちの足を洗い、そして腰にまとった手ぬぐいで拭き始められるのです。主の「洗足」の出来事です。主イエスが弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたみわざです。弟子たちの驚きはどんなだったでしょうか。
 シモン・ペトロは自分の番になった時、 「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」とお尋ねします。すると、主イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられます。ここに、主イエスが弟子たちに与えてくださった神の愛の本質が示されています。

 弟子たちが主イエスに何かをすることよりも前に、主イエスが弟子たちに仕え、弟子たちの足を洗ってくださいました。それはわたしたちが主イエスにつながるときも、主イエスがわたしたちのために祈ってくださり、仕えてくださることと同じなのです。
 主イエスはこの後、ペトロが自らの弱さの故にイエスを三度知らないと言って、主のみ名を否定することもご存知でした。他の弟子たちが主イエスを見捨てて、主の元から去っていくこともご存知でした 。 それにも拘らず、主イエスは弟子たち一人ひとりの足をぬぐってくださいます。 最後の最後まで、愛し抜かれた主イエスのお姿がそこにあります。人間のいかなる行いよりも先行する神の愛の出来事を、主イエスは実現してくださいます。

 「洗足」のイエス・キリストのお姿は、今にも倒れ伏してしまうわたしたちを再び立ち上がらせてくださるのです。この世にあって、わたしたちの足はすぐに汚れ、土にまみれてしまいます。黒く汚れた足を、くり返しくり返し主イエスは洗い、清め、汚れたものをふき取ってくださいます。主イエスはわたしたちの側近くに居て、過ちと怠りを赦し、再び歩みだす勇気を与えてくださいます。

 わたしたちの一切の努力が空しいと思われるその時、主イエスがそこに居て、わたしたちの足を洗うお方として仕えてくださるお姿を見るのです。
 

大学病院の集中治療室で危篤になってベッドに伏している友のため、祈り疲れているときに、その場所に主イエスがおられることに気づかされる。
 道端で寒さと貧しさのため疲れ果てている者の側に、主イエスがそこに居て祈っておられるお姿を見る。
 とぼとぼと暗い夜道を歩いていく時に、その隣に一緒に歩いてくださる主イエスを見る。
 弟子たちの足を洗ってくださった主イエスは、今も、みことばによってわたしたちの悲しみに寄り添ってくださいます。わたしたちの思いを超えたあり方で、主イエスはその場所に居てくださいます。

 そして、主イエスはわたしたちに新しいみことばを示してくださいます。「洗足」の主イエスが、弟子たちにお示しくださった新しいみことばの恵みを与えてくださいます。
 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。
 主イエスの愛に押し出され、今、居る場所にて互いに愛し合う道を進んでいきましょう。

日本福音ルーテル名古屋めぐみ教会牧師 田中博二

 

2013.02

「これからのこと」

201302この時節、どの教会も、教会総会を迎え、新たな年度へと向かっていることでしょう。教会の目標を掲げて、新たな旅立ちをしようとしているに違いありません。どうぞ新しい年度が、主に祝福された年となりますようにお祈りします。
 ところで、目標や、目的を掲げて、目指すのは人間だけでしょう。しかし教会の目標や、目的は、一般社会に良く見られる、〈目標〉、〈スローガン〉とは異なっているように思います。つまり達成目標などと異質です。あくまで生きる目的に深く根ざしているからです。自ら生きることに関係しない、教会目標など無意味です。何を目指して生きるかは、私たちにとって、非常に重要な課題です。
 
 〔まず、神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな、加えて、あなた方に与えられる。〕(マタイ6章33節)  
 イエスが、〈山上の説教〉の中で説いた教えです。イエスは、私たちの生きて行く上での、処方箋を手ほどきしました。〈思い悩むな〉と。私たちの日常抱える、心配事は絶えません。次から次に起こります。また不安も底流に抱えながら生きています。それへの対処法を弟子に指南しました。しかしそれらへの細かい拘りを、根本的に解決する方法を、生きる目標という形で教えました。それが上記の言葉です。
 果て、この目的をどのように進めるかが大きな課題です。今日、教会は足踏みをしているような状況です。最も大きな問題は、先が見えないということでしょう。
 私は、この春引退しますが、今までの歩みを振り返ると、昨今の教会を取り巻く環境が厳しさを増しているとの認識を抱かざるを得ません。今教会は、まさに袋小路にぶち当たっているようです。
 しかしキリスト教の歴史は、何と言っても、2000年間の歩みを控えています。これに学ぶことが肝要かと考えます。そうした時に、この今の困難は、これから迎える大きな発展の礎との結論に達します。私は、そのことを〈山上の変容〉程良く伝えている記事はないと考えます。
 
〔この話をしてから八日程経った時、イエスは、ペトロ、ヨハネ、及びヤコブを連れて、祈るために山に登られた。〕(ルカ9章28節)

 山上の変容は、理性的には理解が困難な記事です。しかしルカの場合、重要な言葉は、《祈るため》との言葉です。マルコにも、マタイにもその言葉はありません。ルカ特有です。ルカは、ことのほか、重要な場面では、《祈り》がなされています。如何にそれが大切かとのことです。
 イエスは、〈山上の変容〉の記事で、受難、十字架の向こうにある、復活を示しました。そしてそれこそが本当の目的だと示唆しました。

 苦しみは、人間を無意味さに直面させます。結局は無目的にさせます。それが怖いのです。忍耐には限界があります。しかし目的がありさえすれば耐えられます。ドイツのナチス時代に強制収容所での過酷な経験を経て生き延びたフランクルが、辿り着いた結論は、〈生きる意味こそが、どんなに辛い経験をも耐えさせてくれる〉と言っています。それは言葉を変えて言えば、〈生きる目的〉があるか否かということに、生きる力を保持できるかということに煎じ詰めることができます。しかし人間は、目的を往々にして見失いがちです。だから祈るしかないのです。現在の苦しさの大きさに耐えかねて、目的を見失ってしまうのです。危機に直面すれば誰だってそうなります。

 〔彼らは栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期について語り合っていた。〕(ルカ9章32節)

 イエスの最期とは何か? これが重要であると考えます。イエスの〈最期〉とは、言うまでも無く、十字架です。しかしそれが解放に繋がっているというのが、出エジプトとの関連で明らかになります。つまり最期が、新たな旅立ちなのです。これこそが、キリスト教の出発点と言えます。それを実現するには、〈祈り〉しかないのです。何かが終わるところで、新たな始まりが起こる。これこそが、主の導きと言えるでしょう。何故なら、主の働きとは、〈贖い〉に集約されて行くからです。

日本福音ルーテル栄光教会・沼津教会牧師 渡邉 進

 

 

2013.01

「突き刺さる時間」

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。……」 コヘレトの言葉 3章1節〜10節

年を越して新年を迎えた今は、一年のうちでいちばん「時」を意識する時期といえます。どんな一年になるのだろう。いい年にしたい。願いがかないますように・・・。期待を希望を膨らませて、それぞれの一年が始まりました。

物理の時間
 「時間はどこで生まれるのか」という物理学者が書いた本を読んで、時間の不思議を思わされました。毎日時間にあわせて生活しているので、時間なしには生活は成り立たないのですが、物理学者に言わせると、そもそも時間などというものは存在しないのだそうです。あるのはただ時計であって、それが少しずつ動く様子をみて時間を気にしているわけですが、時計の中に時間の素など入っていない、というのです。そう言われればたしかにそうです。それはいいとしても、次のような説明にはちょっとびっくりしました 。 わたしとその隣にいる人は、ひとつの時間を共有していると普通は考えるのですが、科学者に言わせれば、今という瞬間はだれとも共有できないそうです。
 さらには相対性理論と素粒子論という現代科学でみていくと、時間は空間といっしょに考えないと意味がないのだそうです。なんだか狐につままれたような気分になります。私たちの生活の中での時間感覚というのは、物理学者が考えるそれとはかなり違っているようです。けれども私たちにとって、日常の感覚が大切なのはいうまでもありません。

コヘレトの時間
 科学が語る時間とはまったく異なるもうひとつの時間、それがコヘレトの言葉だといえます。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、・・・」。 賢者コヘレトは時をしっかりと意識し、いいことも悪いこともひっくるめて時の中に位置づけます。時間という苗床に生活のドラマひとつひとつを植え付けていくように。そしてそうしたひとつひとつの人間模様には、「すべて定められた時がある」と、コヘレトは断言するのです。
 この場合「定められた時」というのは、「あなたは来年素晴らしい人と出会いますよ」という占いめいた話ではありません。「何事にも時があり」とは、嬉しいことも悲しいことも、いつそれが起こるか、なぜそうなるかは私たちには知り得ないし、なかには理不尽としか思えないほどつらい時もあるが、確かなことは、そこには神が必ずおられ、泣いても笑っても嘆いても踊っても、どっちに転んでもその出来事をすべて神が支配しておられるということです。愛する時には神がいて、憎んでいる時には神がそっぽを向いて無関心なのではないのです。

神の時間
 私たちが日常生活で使う時間というのは、日めくりカレンダーや時計の時間です。過去から現在そして未来へと刻みながらひたすら流れゆく時間です。それに対してコヘレトの時間は過去から未来へコツコツ流れておらず、突如上から降って突き刺さってくるような時間です。手帳で管理できない「出し抜け」の時間です。コヘレトのこの時間は、神の時間を語っています。神の時間なので私たちは予定できません。計画に入れられません。説明がつかないのです。ですからコヘレト自身も呻吟したのです。神がいてくださるのだったら、なぜ救い出してくれなかったのかと。
 そんな彼らが最後に到達した結論は、「人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造る」でした。日めくりしながら自分で管理しているつもりの時間は、実は神のご支配のなかにあり、御心が働いていたのです。人間の時間と神の時間は、違っているようにみえても、実のところ同じ時間だったのです。
永遠の時間
 コヘレトはこんなことも言っています。神は「永遠を思う心を人に与えられる。」永遠こそ私たちにはどうしようもない時間です。時計で計れません。そもそも長さがあるのかないのか。ただその言葉だけはちゃんとあって、それが私たちを捕らえて離さないのです。神のみに属する「永遠」、このことばによって、私たちは神を想います。神を慕うのです。
 私たちの時間は、この永遠の中にすっぽりと包み込まれているのです。見えないのは私たちがその中にいて、外側からそれを眺めることができないからです。私たちは今、永遠の中を生きているのです。

これからの時間
 去年同様今年も思いがけずにいろんなことが起こるでしょう。世界で、日本で、そして身の回りで。神は私たちを遠くから見守ってはいません。私たちに介入なさいます。イエス・キリストを私たちの世界に遣わされたように、神の時間は、今も私たちの時間に突き刺さってくるのです。私たちは永遠という神の時間を、生かされて生きています。2013年、時を共有しながら神を礼拝し、いつものように日めくりして暮らしていきましょう。

日本福音ルーテル市ヶ谷教会牧師 浅野直樹

 

ページトップへ

 

過去記事

 

 

 
EditRegion3
| トップページルーテル教会とは全国の教会関連事業るうてる法人会諸活動・運動体ENGLISH
日本福音ルーテル教会 〒162-0842東京都新宿区市ヶ谷砂土原町1-1Tel.03-3260-8631  Japan Evangelical Lutheran Church (C) All Rights Reserved
English