topimage
トップページ ルーテル教会とは 全国の教会 関連事業 るうてる法人会 諸活動・運動体

 

JELCニュースブログ
バイブルエッセイ
機関紙るうてる
JLERルーテル救援
アーカイブ
聖書日課
教会讃美歌
TNG次世代育成
お問い合わせ
サイトマップ

 

バイブルエッセイ(2012年1〜12月)

 

2012.12

「泊まる場所のないすべての者たちへ」

12ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。 宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。ルカによる福音書2章6〜7節

最近の大学生の中には、お昼ご飯をトイレで食べる学生たちが少なからずいる、という話しを聞いておどろきました。学食やラウンジでひとりでご飯を食べていると、「あいつは一緒に食事をする仲間のいない淋しい奴だ」、というふうに見られるので、それを避けるために、ひとりでいるところを誰にも見られないように、トイレで食事をするのだというのです。大切な仲間づくりを経験すべき学生時代に、ひとりで居ることを恥じつつトイレで食事する学生たちの話しを聞いて、この人たちもまた、居るべき場所がない人たちなのだと思わされました。

 わたしが学生時代に通った大阪の釜ヶ崎では、バブル期であったにもかかわらず、多くの方々が路上での生活を余儀なくされておられましたし、東京で暮らしていた頃には平成不況のあおりを受けて、近所の公園がみるみるうちにブルーシートやキャンプ用テントで埋まっていく様子を肌で感じさせられました。いずれも居るべき場所を失いながら、なんとか生きるための場所、自分が居るべき場所を確保しようと、悪戦苦闘しておられた方々です。

 そして今また、3・11以降の社会状況の中で、自分の場所を追われて仮住まいをする数多くの方々の物語を、わたしたちは耳にします。

 クリスマスの物語は、まさに居場所を得られなかったひとつの家族の物語です。若きヨセフと身重のマリアが自分たちの町を旅だった理由は、皇帝アウグストゥスの命により、一族の出身地であったベツレヘムで住民登録をするためであったと伝えられています。身重のマリアを慮って旅の歩みが思ったようにはかどらなかったのか、ふたりがベツレヘムの町に入ったとき、すでに町の宿屋はどこもいっぱいで、宿屋にはヨセフとマリアのための場所は残されていなかった、というのです。

 その居場所の無さは、イエスさまの誕生の後も続いていきます。地上のいのちを受けたばかりのイエスさまは、猜疑心の強いヘロデ王の追っ手を避け、遠くエジプトの地にまで逃避行を続けねばならなかったからです。故郷であるガリラヤのナザレから、一族の出身地であるベツレヘムへ。そして異郷の地であるエジプトでの寄留生活へ。思えば、クリスマスにはじまり、ゴルゴダの丘の十字架へと向かうイエスさまのご生涯の全体が、寄留の生涯そのものであった、というふうに言うことも出来るでしょう。

 そして、だからこそイエスさまの地上での最後の言葉として記録される次の言葉が、重く、味わい深いものとして、わたしたちの心に響くのです。
 
  「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。インマヌエル。それは、イエスさまの誕生にあたって、天使によって告げられた約束の言葉でもありました。

 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイによる福音書1章23節)

 地上にあって、居場所のない生涯をおくられたイエスさまが約束の言葉を下さる。それは、わたしはいつも、あなたとともにいる、という約束の言葉でした。釜ヶ崎の路上にも、公園の片隅のテントにも、放射能を逃れて仮住まいをする母子家庭の食卓にも、インマヌエル。わたしはいつもあなたとともにいる、という約束の言葉が告げられます。その言葉は、大学のキャンパスのトイレで、ひとり淋しくパンをかじっている学生のかたわらに立たれるイエスさまの言葉でもあります。クリスマスのこの時、居場所を追われ、泊まる場所のないすべての者たちに、インマヌエル、という約束の言葉が告げられているのです。
 日本福音ルーテル健軍教会・甲佐教会牧師 小泉 基

「顔と顔とを合わせて」

201211わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(コリントの信徒への手紙一 13章12節) 顔を合わせることなく、コミュニケーションをはかるメディアも発展していく昨今ですが、教会は神と人、人と人とが顔と顔とを合わせる礼拝や交わりを大切にしていると思います。そしてこの期節、多くの教会が全聖徒主日礼拝を守る際に、その歴史を刻んだ分だけ召天者の顔写真を飾るところもあるでしょう。そして故人を偲び集うご家族やご親戚と、教会において一堂に相まみえる時を過ごすのです。  さて神の顔について、旧くからキリスト教は直に見ることを求め続けてきました。旧約聖書においても、神がみ顔を向けてくださることが、神の愛のしるしでした。その反対に神がみ顔をそむけるとは、神の不興をかうことでした。ですから礼拝の祈りでは司る者が神に呼びかけ、神が顔をそむけず、人々がささげた犠牲や祈りを確かに受け取ってくださるように願いました(詩編27・9、132・10)。つまり神の顔を見るとは、神との特権的な、親密な関係を持つことです (『キリスト教の天国』A・Eマクグラス著「顔と顔を合わせて神と出会う」参照)。  例えば詩編の作者も、神と顔を合わせたいという望みを次のように記しています。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」(詩編27編4節)。私たちは神を冒頭の聖句のとおり「今は、鏡におぼろに映った」姿としか、見ることがゆるされていません。けれども神が定める時「そのときには、はっきり」と、「ありのままに見る」(一ヨハネ3章2節)のです。そこに私たちの目から涙を拭い取り、召天者との再会の楽しみ、天の国への希望が備えられているのです。  ところが教会内外で私たちは、いわゆる「顔も見たくない」ような関係に身を置くこともしばしば経験します。神の前に悔い改め、人々の中でもある種の閉塞状態に、他者と出会い、挨拶し、会話を交わすのは至難なことです。  しかし、第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人迫害から生き延びたE・レヴィナスは、「会話という平凡な事実が、暴力の驚異から逃れる一筋の道を指し示す。平凡な事実こそ、奇跡中の奇跡である。語ること、それは他者を認知すると同時に、他者におのれを認知してもらうことである。他者は単に知られるだけでなく、挨拶される」と、顔と顔とを向き合わせた関係に暴力を抗する手がかりを伝えます。  「他者とは、殺したいという誘惑に駆られる唯一の存在者である。この殺害への誘惑と殺害することの不可能性が顔のヴィジョンそのものを構成している。『顔』を見るとは、すでに『汝殺す勿れ』に聴従することである。―中略― それこそが人間の霊的歩みを創始するのである。宗教とは、私たちにとって、この道以外にはない。」(『困難な自由―ユダヤ教についての試論』「倫理と霊性」参照)は、現代に鋭い示唆を与えます。私たちが再び神と向き合い、その神が教会へと召し集められた(私たちが選べない)兄弟姉妹も、周囲におられる人たちの間でも吟味しなくてはならない問題だと思うのです。  翻って私たちは全聖徒の日を記念し、「この世の別れが永遠の別れでないことを覚えさせ、み許において再び顔と顔を合わせる日を望ませてください。...その死によって死に打ち勝ち、今も生きて働いておられる主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。」(ルーテル教会式文(礼拝と諸式)「納棺の祈り」P239参照)を想起し、キリストの十字架を中心に、こちら側(礼拝に集う私たち)と向こう側(天の国)とで礼拝を守ります。そして今日も、「主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。(与えられます)、主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。(――賜ります)」と、祝福に与るのです。共々に、顔と顔とを合わせて。  

 

 

「神の愛の鞘におさまる」


201209


「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の言い伝えを固く守って・・・」
マルコによる福音書7章3節

  「カズ、ヘペッチだって」と子どもらが話しをしていたブラジルの教会学校の風景がよみがえってきました。「ヘペッチ」は、英語のリピートにあたり、留年ということです。小学校から留年があるのには驚いてしまいました。落ちた子を決して軽蔑して言っているのではないのです。むしろ、子どもらはそれが当然であり、互い受けとめあっているのがよく分かりました。
 ファリサイ派の人と律法学者が、ここにでてきます。この人たちは当時の社会では大変に尊敬されていました。イエスさまも実はファリサイ派に近いところで育てられたのではないかといわれています。この人たちは実に律法を守るということに忠実でした。律法を守ることによって神に愛されると考えた実に真面目な人でした。ですから律法を守らないということが、とても気になるわけです。「そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』」(7・5)と尋ねたのです。それは彼らからすると当然の言葉です。しかし、ここには守る者、守らない者という差別が生まれてくるのです。守る者が神に愛されるのにふさわしいと考えるようになるのです。
 その結果が人間くさい努力主義になってくるのです。律法を守りさえすれば成功という人間が中心に出てくるのです。この律法を守るために努力している自分こそが正しいものであって、努力しない人間はだめだということがまかりとおってくるのです。実に人間くさいものになる、だからイエスさまは、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(7・8)と言われるのです。
 今、教育現場で、競争をさせてもっと子どもらの学力をあげていこうということが叫ばれたりもしています。それ自体、聞いていると何の問題もないように思えますが、実は、競争に遅れたものはだめだという差別化が起こるということです。まさにファリサイ派のような動きが起こるのです。
 では、最初に言いましたブラジルの子どもの例とどう違うのかということです。一人一人の存在が保証されているというカトリックの信仰が根底にあって、それぞれが生かされた平等な存在であるといことです。
 勉強は大切です。そこでヘッペチしたとしても彼はだめな子ではありません。私たち一人一人が生かされた存在であるというところから自分自身を見ていきます。結果として落第することもありますが、これで人生が終わりであり、未来が決められていくのではないということです。
 本来、律法を守るということは、神から存在することを許され、保証されている出来事のなかで、律法を守る者として選ばれた者は、人を差別化するために律法を守るのでなく、喜びの生き方として律法を守るのです。
 荒井献氏は「旧約を超えて、新しい契約を携えて現われたと言えるイエスは、人間の作った掟に縛られている人々を元来のユダヤ教精神に返し、神とともにある喜びの生き方を取り戻そうとしたのだ」と言っているのはうなずけます。
 「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(7・13)
 この言葉はまさにそのことを言っているのだと思うのです。私たち一人一人は神に愛された存在であるというところからすべてを見ること、恵みの関係から今をみるとき努力主義から解放され、私たちは自由に、すべてを喜びと感謝をもってなすべきことをなせるのです。
 競争原理がますます強くなっていく社会にあって、私たちの生き方が根底から問われています。私たちは、人間くさい鞘に収まらず神の愛の鞘に収まること、神の愛の場所に自分をもどし、喜びと感謝をもって、神の律法をよく生きていきましょう。
 「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、すべての戒めを守れ』これこそ、人間のすべて。」
『コヘレトの言葉』12・13
大森教会牧師 竹田孝一


ページトップへ

「恵みに溢れて」

201208

 「生涯、彼を満ち足らせ、私の救いを彼に見せよう」詩編91編16節

 この度、P2委員会からLAOS講座別冊『人生6合目からの歩み』が出版されました。私たち日本人は、平均寿命の飛躍的な延びによって、人類が今まで経験したことのない領域を生きています。 これは恵みであると同時に、大きな課題でもあります。歳をとっていくことは、多くのものを失っていくことかも知れません。例えば健康、役割、関係、伴侶、そして、何よりも時間。老いていくことは喪失していくことでもあるのです。
 しかし、ますます増えていくものがあります。それは「恵み」です。確かに多くのものを失いますが、しかし、恵みはますます「私」に溢れていくのです。とすれば、歳をとることはまた「希望」でもあるのです。

 よく、老齢期を厳しい冬の季節として表現することがあります。青春から始まって人生を朱夏、白秋、玄冬などと表現します。しかし、私たちの人生を季節で表現するだけでは十分ではありません。なぜなら、人生は「旅」だからです。そして人生を旅として受けとめるとき、老齢期は希望の時期でもあるのです。神に支えられ、導かれて生きてきた長い人生の旅路、喜びばかりではなかった人生の航路、しかし、その旅がいよいよ終わりを迎えるとき、それは神さまの祝福の時でもあるのです。永遠の「命の冠」を神さまから受ける「勝利の時」なのです。老齢期、確かにそれは一番厳しい時であるかもしれません。若い頃のように自由に動き回ることもだんだん出来なくなってきます。

 しかし、長く航海を続けてきた船だって、港に近づくとき速度を落とすものです。そう、私たちの人生の港、それは天の御国です。天の御国こそ私たちの永遠の港なのです。つまり、老齢期は希望そのものなのです。そして、これまで人生の旅路を導き、支え続けてくださった神の恵みを思い、喜びと感謝がわき上がってくる「時」でもあるのです。希望がますます確かになっていく「時」なのです。
 
パウロは言います「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神とのあいだに平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りにしています。~希望は私たちを欺くことがありません。」ローマ5・1~5。つまり、歳をとっていくことは、私たちが、ますます強く深く恵みを自覚することでもあると思います。歳を取ることはますます恵みに溢れていくことなのです。例え肉体的に衰えてきても、私たちは信仰による希望に於いて完全に救われているのです。

 パウロは、直接老いについて言及してはいないように思いますが、彼の病の理解を知ることは出来ます。新約聖書で「病」を表す言葉はアッセネースという語ですが、パウロに於いては重要な神学的な意味を持っています。 パウロはこの言葉によって身体的な病気を表すだけでなく、もっと広くそれを「弱さ」として神の前にある人間の普遍的事態を現しています。(Ⅰコリ2・3、Ⅱコリ12・9、ガラテヤ4・13)ここから私たちは老いというものを考えることができます。老いはある意味「弱さ」そのものの経験だからです。

 パウロは言います「だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう。~なぜなら私は弱いときに強いからです。」Ⅱコリ12・9以下。
 そう、キリストの力は、弱さの中でこそ十分に発揮されます。われわれの弱さ=老い、病は、キリストにより、主ご自身の力=恵みを受けるところとなり、私たちは真の強さに与るのです。その為に私たちは、洗礼に与ったのではありませんか。ルターは「あなたが絶望していても、洗礼は決して空しくならない。」

「洗礼に於いて考えられるべき第一のことは、神の約束である。」と語っています。
 そう、私たちの希望は、洗礼を根拠とした希望なのです。私たちの希望は、単なる希望的観測ではなく、洗礼を根拠とした確かな希望なのです。そして、その洗礼の希望は、礼拝に於いて御言葉(説教)と聖餐によって絶えず新しく経験され、私たちはますます命と恵みに溢れて日々を生きるのです。「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新しくされていきます。」Ⅱコリ4・16とパウロが語るように...。
  都南教会 太田一彦

ページトップへ

「主を喜びとする日」

201207


「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。
命を救うことか、殺すことか。」マルコによる福音書3章1節~12節


 この春から喜望の家の勤務が始まり、平日は朝の満員電車に揺られています。梅田駅で地下道を通って乗り換えます。群れをなして突進するように歩く人々の姿が、初めの頃は、サバンナのバッファローのようで、異様な光景に思えました。三か月が過ぎ、自分もその流れの中に乗って一緒に突き進んでいます。帰宅の車中はぐったりという日も少なくありません。そのような毎日を過ごしていると、日曜日の安息が待ち遠しい、本当に待ち遠しく思えます。

 イエスさまは、ここで、安息日の用い方について、ファリサイ派の人々と議論しています。現代の私たちからすれば、律法を固く守って、絶対に譲ろうとしないファリサイ派の人々は、頑固で融通の利かない、変わり者のように思えます。イエスさまのおっしゃる言葉はもっともです。納得できるし、当然のこと。日曜日であっても、病人がいれば病院へ連れて行くし、手当てをして傷ついた人を助けるというのは、それこそ人の道で、道理に適って理解のできるところです。
 そもそも安息日は天地創造の時に、神さまが6日間働いて、7日目に休まれたことに由来します。神さまは第7の日を祝福し、聖別されました。しかし、その安息の日を守ることのできない時代がありました。それはモーセの頃、イスラエルの民はエジプトで奴隷でした。モーセはファラオに、主に礼拝をささげたいと願い出ますが、ファラオはそれを許してくれませんでした。十戒を授かったのは、その後のことで、エジプトを脱出してからです。
 また、バビロン捕囚の時代にも、エルサレムの神殿を失ったイスラエルの民は、主に礼拝をささげることができませんでした。ですから、聖書を作って、新しい礼拝の形を整えていったのです。そのような辛い体験と苦い時代を経て、安息日は重んじられるようになりました。
 しかし、決まりごとというのは、いつしか形骸化してしまって、人間を生かすのではなく、人間を縛るものになってしまうことがあります。イエスさまの時代はそうであったわけです。そうしますと、私たちはどのように安息日と付き合えばよいのでしょうか。現代社会は安息日の規定よりも、この世の融通の方が優先してしまうような時代です。そのような時代にあっては、安息日を守ることの方が難しい。
 ここで、イエスさまは、安息の意味を説いておられます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」。内容を見ますと、これは日曜日だけに限ったことではなくて、他の6日間についても、私たちの生き方全体について、それを問うておられます。
 神さまが祝福してくださった安息日は、人のためにあります。人が生きるため。神さまは一週間の労働を終えて、その成果をご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」、実りに対して満足して休まれたのです。そして、その日を聖別し、恵みの日としてくださいました。それは、私たちがみ言葉と霊とに満たされ、命を回復するためです。
 主日礼拝が待ち遠しい。強制されるようなものではなく、恋人に会うような待ち遠しい気持ちです。
 仕事帰り、疲れているであろうに夜の聖研に集う人の気持ちが、今にして分かるようになりました。すでに集会は始まっていて、それでも遅れて来られます。「無理をしなくてもいいんですよ」「お体を大切にしてください」と言っても来られます。終わりにいつも讃美歌を歌ってお祈りをしていました。そのひと時こそが安息です。イエスさまに触れている時でした。聖徒の交わりの中で、一緒に歌いたいんです。一緒に歌いたい、讃美歌を歌いたい、歌うことのできない平日の日、日中というものを過ごしていますから。
 安息とは、このように、人がよみがえって、生きるためのもの。人々がよみがえって、明日への希望や明日への新しい力を得る。豊かな祝福、天からの恵みです。神さまは、そのような恵みの日をお定めになりました。主を喜びとする日です。

ディアコニア・センター喜望の家 豊中教会  牧師 小勝奈保子
「主を喜びとする日」

ページトップへ

「誰の常識ですか」

201206


あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
ヨハネによる福音書3章7〜9節

 「どうして、そんなことがありえましょうか」
 この言葉は、イエスの導きに対して自らの常識にとらわれてしまい、イエスの言葉を受け入れることが困難になっているニコデモの答えです。
 私たちの日常生活に於いて、慣習・慣例と言われるものが多く存在しています。それらが浸透してきた背景には、長い年月によって「合理的」と考えたり「問題がない」として、安心感を得るためであったと言えます。しかし、この安心感は、私たち人間の都合によって考えている事ですので、人間を中心とした考えにしかなりません。
 この人間を中心として考えられてきた慣習・慣例は、「常識」という枠によって考えられてきたことでもあります。私たちが考える常識とは、自分自身の経験と、共同体の中での共通理解されている部分でもあります。

 ファリサイ派に属し、議員であるニコデモが、イエスのもとを訪ねます。彼自身、ファリサイ派に属しながらも、イエスの行なうしるしによってキリスト信仰の芽が出始めたのです。しかし、ファリサイ派に属しユダヤ人の議員でもあったので、同僚に「裏切り者」と見られることを恐れ、夜訪ねます。他の人に会いたくない、見られたくない、しかしイエスに会って話してみたい感情に包まれているニコデモの姿を見ることが出来ます。

 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」イエスのこの言葉にある「新たに」には、"上から"という意味もあります。即ち、新たに生まれるには自らの力によるのではなく、上からの力、父なる神からの導きによっての生活を始めることと言えます。ニコデモは、イエスの言葉に対し「どうして」と、反論とも取れる答えをしています。ここに、ニコデモが今まで築いてきた人間的常識を重要視している姿があるのです。イエスに対し「神のもとから来られた」「神が共におられる」といいながらも、神の御力、神からの恵みを人間の常識の中で捉えようと必死になっている姿です。

 このニコデモの姿は、私たちの姿そのものであるのではないでしょうか。礼拝に於いて御言を聴き、聖書の学び等でキリストの教えを深く悟ろうとしながらも、日常生活に当てはめて考え、理解しようとしている部分が多くあるということです。日々多くの事柄に関わりながら生活している私たちは、生活の術というものが人間の快適性を求め続けて成り立っているということを忘れ、当たり前の慣習として受け止めています。人間の快適性を中心にした生活に、自分たちの習慣に、神の存在をあてはめようとしている姿があるのです。

 「新たにうまれる」ことは、人間中心としての常識を一旦降ろして、神を中心とした生き方をはじめるということです。そのとき、神の常識は私たちの目には非常識に見えていたことに気付くのです。ニコデモは自分の常識(人間の常識)を降ろすことができずに、どうしても「新たに水と霊によって生まれる」ことを受け止められないのです。
 
ニコデモの姿は、信仰に導かれている私たちの姿といえます。そして今、教会を尋ねてくる一人ひとりの求道者たちの姿でもあります。キリストの愛に気付き、周囲を気にしながらも確かなものを求めて教会に足を向ける。そして御言を聴きながら自分の造り上げた常識を壊しつつ、神の常識に与かれるようもがいている姿です。

 私たちは風の始まる場所、終わる場所を知ることはおろか、目にすることも出来ません。人間が作った常識の中で生活しています。

 神の常識に与かるためには、すべてを委ねることしかできない。そのような私たちは、キリストに「霊をください」ということしかできない存在です。霊を自ら作り出すことは出来ません。父なる神の存在によって悔い改め、キリストによって赦され、聖霊の働きによって新たな人間として生きることが赦されているのです。父なる神、キリスト、聖霊、いずれか一つが欠けても、新たな命に生きることは出来ません。このことをおぼえて、聖霊降臨節(三位一体節)を過してまいりましょう。
 
 シオン教会牧師 室原康志

ページトップへ

「幸せの方程式」

201205


『祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている〝霊〟について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、〝霊〟がまだ降っていなかったからである。』
(ヨハネによる福音書7章37~39節)

主の聖霊降臨を、心よりお喜び申し上げます。

 『見ているだけで/何も描けずに/一日が終わった/そういう日と/大きな事をやりとげた日と/同じ価値を見いだせる/心になりたい』
 これは星野富弘さんの作品です。どのような状況にあっても、すべてが神様の祝福として、また恵みとして受け止めたいという星野さんの信仰が伝わって来ます。

 ペンテコステ(聖霊降臨)を境に、イエスの弟子たちは、雨が降っても風が吹いても、すべてが神様の祝福として、同じ価値を見出せる心を持って歩み始めました。
 このペンテコステについては、使徒言行録の二章で、一同が集まっているとき、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人ひとりの上に留まった。そのときみんなは聖霊に満たされ、異なるさまざまの言語を持つ人々の言葉の壁を越え、意志疎通が出来たと記されています。その霊というのが、本日の聖書の「イエスを信じる人々が受けようとしている『霊』」のことであり、思想、民族を越えてイエスを信じる者から、「生きた水が川となって流れ出る」と言われることなのです。

 ところで、イエスが、「......その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」という言葉を発した背景ですが、聖書には、祭の終わりの日とあります。この祭とは、仮庵祭と呼ばれるイスラエルの三大祭のひとつで、ぶどう、いちじくなどの秋の収穫を感謝する祭りです。またイスラエルの暦では、年末に当たり、新しい年も豊かな年であることを祈るもので、間もなくやって来る雨季に際して雨が多くもたらされることを祈願したのでした。ゼカリヤ書一四章一六~一七節には、仮庵祭を祝うのに、エルサレムに上って来ない者には、雨が与えられないとまで言われています。ですから、仮庵祭は、ユダヤ人にとって水をもたらす特別の意味を持っていたのです。
 かつて、モーセに率いられたイスラエルの民が、「なぜ、我々をエジプトから導き出したのか。わたしも子供たちも、渇きで殺すためではないのか」と、モーセに迫った時、主の示されたホレブの岩を杖で打つと、そこから水が出てイスラエルの民は救われたことがありました。以来、イスラエルの民にとっての水は、まさに主から与えられたものであり、どのような状況に置かれても主は導き、命である水を与えられるという確かさとなりました。その彼らに、今、イエスは、「生きた水」、それもただの「水」ではなく、あえて「生きた水」が流れると言われるのです。
 また、イエスがサマリアの町に来られた時のことです。丁度昼時で、イエスは旅に疲れ、ヤコブの井戸のそばに座っていました。そこに水を汲みにサマリアの女が来ました。喉が渇いていたイエスは彼女に水を一杯飲ませて欲しいと願ったことがありました。そして、ヤコブの井戸の水を飲む者はだれでもまた渇くが、イエスご自身が与える水を飲む者は決して渇くことはなく、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。イエスが、「生きた水」と言われるのは、それはとりもなおさず、「永遠の命にいたる水」なのです。
 そして、ここで大切なのは、「生きた水」と「信じる」が、一つになっているということです。イエスを信じることをとおしてのみ生きた水が私たちに与えられるということです。水は絶え間なく流れていなければ澱んできますし、腐ってしまうことになります。しかし、イエスを信じるということと結びついて初めて「生きた水」となるのです。イエスが共にいてくださることによって、「生きた水」となるのです。

 人はしばしば、幸せになる人生の方程式があればと願います。もしそうならば、どのような状況に置かれても、その方程式どおりにすれば、幸せになれるはずです。星野富弘さんの冒頭の詩のように、自分が受け入れ難い季節を迎えても、それは神様がそなえて下さったこととして、受け入れ、すべてを神さまに任せる、これが幸せの方程式と言えましょう。弟子たちがすべてを信じ、すべてを委ねて歩み始めたのが、ペンテコステ(聖霊降臨)です。この日、イエスの弟子たちに、「聖霊」が与えられたのです。そして、新たに聖霊をとおして、「生きた水」が流れ出るようになったのです。ご一緒に、聖霊の導きを覚えつつ感謝をもって、過ごしてまいりましょう。
   蒲田教会牧師           渡邉純幸

ページトップへ

「新しくされたあなたに、おめでとう!」

201204


兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。コリントの信徒への手紙一 15章1〜5節


イースターおめでとうございます。こちらブラジルでは、イースター(復活祭)を、「パスコア(Pascoa)」と言います。チョコレート製の「オーボ・デ・パスコア(イースターエッグ)」がスーパーで鈴なりにぶら下げられて売られています。5cm位から30 cmのもので、割ると中にもチョコがたくさん入っていて、二重の喜びを味わうことができます。
 死んだ石ころのような冷たい殻を破って愛くるしいひよこが生まれ出てくるように、キリストの死の悲しみを蹴破り、新しい命が出てくることをお祝いします。
 ブラジルではカルナバルの大騒ぎが終わって、四旬節の慎ましい期間が始まります。お肉の売り上げが落ち、バカリャウ(鱈の塩漬けの干物)が積み上げられ売られます。この期間、お肉やお酒をいただかないで、日常を悔い改めるという方々にも出会います。街の通りでは、クワレズマ(ポルトガル語で「四旬節」の意)の並木が、みごとな紫色の花を咲かせます。神様も、この季節にこの色の花を咲かせ、心静かな悔い改めという準備を迫っておられます。
私達はどんな準備、どんな神様との対話を日々しているでしょうか?
 私はブラジルに遣わされて3年になります。今までと違った体験や祈りをさせられます。机の上の話し合いや書類、予算書だけではなくて、祈りながら体当たりをしなければ渡れない川辺に今まで以上に立たされるように思います。静かに考え、祈るようにさせられました。教会のことでも、人生でも、話し合いで結論を出すことや議論で勝つことではなくて、困難でも神様のみ心があるなら、取り組み、祈り、ひたすら待つことを教えらました。眠れないような不安や絶望の、もう一つ向こうで神様に出会うことができるように思います。新しい地で、新しいことに取り組み、自分に足りないことを教えてくださる神様に感謝します。

 困難に出会う時、自分の小ささを思い知らされます。しかし、そこでどう思うかで、結果は違います。「ああだめだ、いつもこうだ」とふさぎ込むか、信仰と希望を持って進むかです。ただ頑張ることは限界があります。絶望するけれど、安心するということが大切です。「キリストが私達のために十字架に掛かり、復活してくださったから」という聖書の言葉と、「あの時もそうだったから、今度も神様が動かしてくれるはず」という自分の神様との体験がそうさせてくれるのです。不思議な安心感です。その福音の言葉を私達は受け入れ、「生活のよりどころにする」ことが、道を切り開くのです。
 あなたは、どんな事柄を抱え、どんな祈りを持っていますか?
 今年の初めに、ブラジルの有名な「弓場農場」を訪ねました。もとはキリスト教中心の自給自足の農業共同生活を続けている、日系社会です。そこで、多くを感じました。
食料もほぼ自給自足で、家具やお茶碗なども作っています。私も、お茶碗やコーヒーカップを買い求めてきました。釜の隣の部屋の棚から、出来るだけ綺麗で、形や高さの整ったものを選びました。しかし、最後まで気になるカップがありました。棚の下にまとめておいてあった、曲がったカップたちです。私は最後にそれも一つ買ってきました。
毎朝、朝食でそのコーヒーカップを使うことにしました。朝の忙しいひとときですが、それでコーヒーを飲み、自分の足りなさや不完全さを思う時間になります。「神から見れば、罪人の私達は曲がった失敗作かも知れない。自分も弱いところ、曲がったところ、とがったところがある。でも赦され、生かされている。用いられている」と、食事をしながら瞑想できるのです。心の中で静かに祈って始める一日。そこに新しい一日、新しい自分の命があると思うのです。
 皆さんもそんな朝を始めませんか? 復活のキリストに出会い、新しいいのちに与る生活を始められるでしょう。神様からの多くの祝福を見ることができるでしょう。
 復活祭、おめでとうございます。そして、新しくされたあなたに、おめでとうございます。

ブラジル/サンパウロ教会
       徳弘浩隆

ページトップへ

「驚くべき十字架」

201203


《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。》マルコによる福音書10章45節

聖書は、神の子イエス・キリストが、この私たちに仕えるために来られたことを宣言致します。これは何と驚くべき言葉でしょうか。父なる神さまとご一緒に、この世界を造られた、またこの世界をご支配しておられる神の子が、あの人の子イエス・キリストが、こんなちっぽけで、罪深く、「思うように生きられない」と嘆くしかない私たちに仕えてくださる、実に主はそのためにきてくださったと語られているのです。
 しかし、果たして本当に私たちは、この言葉に
驚きを覚えているでしょうか。どこかこの驚きを見失ってしまっている私たちがいるのではないでしょうか。では何故驚くことが出来なくなってしまっているのか。それは、主の言葉に従い得ていないからです。もっと言えば、主を見習って生きてはいないからです。この御言葉の前にはこんな言葉がある。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。そして、なぜならば、と上記の御言葉が続くのです。私たちがこの主のお言葉に驚き得なくなっているのは、どこかで主に仕えられることを「当たり前」のこととして受け取っているからではないでしょうか。「仕える」ことの困難さは、実際に「仕え」て見なければ分からないのです。主が私たちにお仕えくださったように、私たちも実際に人に仕えてみる。その時に、初めて分かる。人に「仕える」ということが如何に困難であるか、ということを。しかもそれは、いつも自分たちに好意的な人物に仕えることを意味するのではないのです。感謝もされない。むしろ疎んじられたり、「やって当たり前」とばかりに、わがままで自分勝手なことばかりを要求するような人にも仕える。怒りが込み上げてくる。理不尽さに泣けてくる。文句や不平などを「ぐっ」と押し殺しながら、唇を噛み締めながら「仕える」ということだって起こってくる。しかしそれは、私たち愛に乏しい欠けだらけの弱い人間だからであって、神さまやイエスさまはそうではない、と思われるかも知れない。しかし私は、「神さまだから平気だ」「イエスさまだから平気だ」と考えるのは間違っているとも思うのです。罪に対しても、人の悪に対しても、私たちの方が遥かに鈍感なのです。ある意味、同じ罪人同士として、同じ穴のむじなとして、「しかたがないよね」とばかりに物わかりの良ささえも持ち合わせていたりする。そうではなくて、私たちと同じ人でありながら罪を犯したことのない神の子が、私たちに仕えてくださるのです。罪人同士でもない、同じ穴のむじなでもない神の子が、罪人の私たちに仕えてくださる。自分勝手で、わがままで、感謝もせず、常に不平不満を言うような、どうしようもない私たちに仕えてくださる。それが十字架なのです。決して「当たり前」のことが起こったのではないのです。罪に対する激しい怒り、決して赦せないというご自身の思いに徹底的にぶつかって、それでも赦すことを、愛することを徹底的に選び取ってくださった。ご自身の命を私たちの身代金として差し出すほどに、私たちに仕えてくださった。そんな十字架の出来事だからこそ、「驚く」のです。こんな私(たち)のために、どうしてここまでしてくださるのか、と「驚く」のです。それが「多くの人の身代金として自分の命を献げ」てくださった主イエスのお姿に他ならないからです。
 十字架の出来事は決して分かりきった自明の出来事ではないのです。「どうしてそこまで」というまことに不可思議な「驚く」べき出来事なのです。私たちは主のご受難と復活に向かうこのレントのとき、もう一度この新鮮な「驚き」を取り戻す歩みをしたいと思うのです。また事実、この「驚く」べき出来事が、この私(たち)の上に既に起こっている、ということを信じていきたいと思うのです。

清水教会・小鹿教会牧師       浅野直樹

ページトップへ

「讃美の声を高らかに」

201202


《主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす光、あなたの民イスラエルの誉れです》
ルカによる福音書2章29節~32節

 数年前の式文の学びの際、講師の方が「式文を用いる礼拝だと、毎回毎回同じことの繰り返しのようにお感じになるかもしれません。しかし、二つとして同じ礼拝はありません。なぜなら、その時、その空間、その礼拝に集められた一人ひとりと、そこで働く神さまの聖霊はそこだけのものだからです。つまりライブです。 派遣の部で私たちは、シメオンの賛歌を共に歌い、またそれぞれの日常に神さまから遣わされてゆきます。もしかしたら、この礼拝が最後になる方もおられるかもしれません。ですから、この賛歌を共に歌うとき、俯いていたり悲しい顔をしているよりも、幼子イエスを胸に抱いて喜びに溢れていたシメオンのように、顔を上げて、喜びを生き生きと表すように歌うとよいのではないでしょうか・・・。」と、言われていたことを思い出します。 それ以降、司式者として立たせていただく際には、可能な限り向かい合っている会衆すべての人のお顔を見るようにしています。そして、待ち望んでいたメシアを胸に抱いて喜びに満たされているシメオンの気持ちに思いを馳せ、私の魂も喜び祝い、暗い顔ではなく喜びに満ちた顔でいられるようにと祈りながら・・・。 けれども時には心が沈む時、落ち着かないこともあります。それでも顔をあげ、会衆と一体となって神さまを讃美するとき、不思議と深い慰めと力を得るように感じています。
 神さまが、小さな乳飲み子として救い主をお与えになった理由は、子どもが持っている無邪気さや天真爛漫さ、沢山の可能性を秘めた未来への希望がある、というだけではありません。小さな赤ん坊という姿は、誰かの力を借りなければ決して命をつなぐことのできない無力そのもの。主はもっとも大いなる力を持っておられるにも関わらず、自らの力を行使することを放棄して、人間の手にその身を委ねられました。それは、この腕にかかる重み、ぬくもりを通して私たちが、今この腕の中に納まるほどに小さくなられた神さまの愛の重み、恵みの温もりを知るためにほかなりません。
 幼子を抱き神さまの約束が果たされたことを実感すると、シメオンはもうこの世に思い残すことはないと言います。神さまの約束に希望を持って待ち続けていた万感の思いが魂からあふれ出ているのです。また、アンナも同じく、幼子イエスと出会えた喜びに包まれて、神への賛美をささげた後、エルサレムの人々にこの嬉しい知らせを告げました。救い主と出会えた人々は、その喜びを自分の中だけにとどめておくことができなかったのです。
 では、私たちはどうでしょう? 福音を伝える喜びや感謝にあふれているでしょうか。見渡してみれば、私たちが生かされている現実は嘆きや呻きの耐えない社会。希望が見え辛く、不条理なことや悲しい出来事が絶えないと思えるような日々の積み重ねのように感じられます。耳に聞こえてくるのは、「神がいるというのであれば、なぜこのようなことが起こるのか」というような、怒りや不安、疑いの声の方が多く、喜んで受け入れられるどころか、怪しまれ拒絶されそうな気配すらあります。そのようなところに、「私たちの救い主は確かにおられる」と証し続けることは、簡単なことではありません。
 しかし、一週間の営みを終え、それぞれの場所から礼拝に集められる私たちは、まず共に罪の告白を行うように促され赦しを与えられます。そして、御言葉と聖餐の恵みによって福音を分かち合い、新たな力を注がれます。派遣の部にあるシメオンの賛歌は、再びそれぞれの生活の場へと散らされてゆく私たちに、「あなたは喜びに満たされた者である」ということを示してくれているように思います。
 罪人である私の上にも、また罪人の群れである教会の上にも救い主の光は輝いています。そしてこの光は、失われることのない希望でもあります。この希望の内に生かされている私たちは、讃美の声を高らかに告げる者であり続けましょう。
日本福音ルーテル札幌教会・恵み野教会牧師  岡田薫

ページトップへ

喜びと純粋な心をもって、共に


使徒言行録2章44−47節には、草創期のキリスト教会の姿(キリスト教共同体の姿)が記されています。「信じた者たちはみな同じ場所に居て、一切を共有していた。また財産や所有物を売って、必要とする者がいれば、それを誰にでも分けた。また思いを一つにして毎日神殿に居つづけ、また家ではパンを割き、喜びと純粋な心をもって食事を共にし、神を讃美し、民のすべての者たちに好まれていた。主は救われる者を日々一緒に加えて下さった」(田川健三訳著『新約聖書 訳と註 2下 使徒行伝』作品社)。
 ここに記されていることが、どこまで史実であるのかは分かりません。なかでも、キリスト教会の人たちが、「民のすべての者たちに好まれていた」ということは事実ではなかったでしょう。というのも、キリスト教会の人たちは、「民」によって十字架の刑に処されたばかりのイエスをメシアとして信じる人たち、だったからです。ここに描かれているのは、使徒言行録の著者ルカが、四十数年前の草創期のキリスト教会を想像しつつ描いた「理想化」した姿なのでしょう。
 しかし、ここに描かれている教会の姿がたとえ仮説的なものだとしても、「民のすべての者たちに好まれる」教会とはそのような教会である、ということに私たちは同意することができるのではないでしょうか。
 さて、草創期のキリスト教会のメンバーがどのような人たちであったのか、ルカは記していません。ここでは、そこに集う人たちが、どのような社会における境遇の人であるか、階級上の地位や社会的身分がどのような人であるか、その人がどれだけ生まれつきの資産や能力を備え、知性、体力を有しているか、そのようなことが注意深く取り除かれています。そしてその上で、ルカは、全員が神の前に同じ状況に置かれているということを、「一切を共有していた」という一言で表そうとしたのではないでしょうか。どんな人も生まれのめぐり合わせや社会的な情況のよしあしによって当人の有利・不利が左右されない、それによって当人の優劣は決まらない状態、それを「(人々が)一切を共有していた」状態である、と。また、「(人々が)一切を共有していた」ということは、人々は「一切を共有すること」に合意していた、ということす。つまり、全員が神の前に公平である、そのことに合意した人たちによってキリスト教会は出発している、とルカは描くのです。
 そして、全員が神の前に公平であるという状態に合意した共同体であるがゆえに、人々は、それぞれの能力は個人のものではなく、共同体の共有財産であると考えたのでしょう。だから人々は、それぞれの能力によって得た「財産や所有物」を、「必要とする者がいれば、それを誰にでも分けた」のです。ここには、分け与える者と施しを受ける者、強者と弱者という境目がありません。このような共同体だからこそ、「民のすべての者たちに好まれていた」のです。このことに、私たちも、ルカとともに同意したいと思います。そして、その同意から現実の問題に向き合っていきたい、と。
 ところで、ジャン・バニエは「あなたは輝いている」(一麦出版社)という著書の中で、次のように言っています。『ルネ・ルノワールは、彼の著書「除外されたもの(The Outsiders)」の中で、カナダの先住民の若者のことを書いています。20人の子どものグループに対して、質問に最初に答えられた子に賞品をあげると約束して「フランスの首都はどこですか?」と聞きました。子どもたちはみんなで話し合ってから、声をそろえて「パリ!」と叫んだのです。なぜそんなことをしたのでしょうか。その理由は、賞品をもらえるのは20分の1の確率で、一人しかもらえないからです。そして誰か一人が賞品をもらえば、その人はもうコミュニティの一員ではなくなってしまうのが分かっていたからです。勝った人は他の人より上位に立ってしまうのです。私たちが生活する豊かな社会では、多くの人が賞を得る代わりにコミュニティや連帯の意識を失っています。より貧しい国では賞を得ることはありませんが、連帯感を保っていられます』。
 私たちの日本福音ルーテル教会が、「喜びと純粋な心をもって」、よりいっそう連帯感を深めていくことができますように。そして主が・・・。


日本福音ルーテル門司教会・八幡教会  岩切雄太

ページトップへ

「今わたしは主の救いを」


主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。  ルカによる福音書2章29~30節

広島県にはエリザベト音楽大学という学校があります。この「エリザベト」は、聖書に出てくる女性のエリサベトに由来しています。すなわち、ルカ福音書の初めにある降誕物語で、洗礼者ヨハネの母となった女性、そして主イエスの母であるマリアと縁戚関係にあった女性がエリサベトでした。
 アドベント・クリスマスの季節、必ずと言ってよいほど読まれるルカの降誕物語ですが、その全体、つまり1章の初めから2章の終わりまでを通読してみるのもお勧めかもしれません。
 そうすると、ここには五人の主要人物が登場していることが分かるでしょう。登場順に挙げるなら、ザカリア、エリサベト、マリア、シメオン、アンナです。そして、大変興味深いことは、マリアを除く全員が高齢者であることです。たとえば女預言者アンナは、「夫に死に別れ、八十四歳になって(2章37節)」いました。
 これに対してマリアはおそらく十代の女性だったでしょう。日本の童謡にも〝十五で姐(ねえ)やは嫁に行き〟とあるように、婚約も結婚も適齢期でした。世代的に考えるなら、4人の高齢者たちにとってマリアは孫娘みたいな存在ですね。
 それからもうひとつ興味深いことは、この4人が全員エルサレム神殿関係者だったことです。ザカリアは祭司で、その妻エリサベトも祭司の家系(アロン家)に属していました。また、メシアの降誕を待望していた信仰篤い老人シメオンも神殿の中でマリアたちと出会っています。アンナに至っては、「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた(2章37節)」と書かれているほどです。
 ルカ福音書を読んで驚かされることのひとつは、この福音書が旧約聖書の香りに満ちていることです。そのことは、その降誕物語についても言えるでしょう。たとえば、「ザカリアの預言(1章)」、「マリアの賛歌(1章)」や「シメオンの賛歌(2章)」に、私たちは旧約のみ言葉の響きを十分聞き取ることが出来るのです。
 さて、降誕物語のひとつの主題は〝新旧の交代〟であると言えないでしょうか。シメオンの賛歌「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」は、幼子イエスを腕に抱いた時に湧き出た感激でした。彼はもう何の後顧の憂いもなくこの世を去ってゆけるのでした。ところで、「お言葉どおり」と述べたシメオンの確信は、「今これから起きようとしている新しいことは、もうすでに起きていたことである」というものではなかったでしょうか。それは彼の長い人生を振り返って断言できることだったはずです。
 〝新旧の交代〟、それは私たちの教会にもあてはまる言葉かも知れません。教会には、マリアの世代により近い方もおられるでしょうし、エリサベトやシメオンに近い方もおられることでしょう。〝後顧の憂いなく〟は、どちらの世代にとっても大切なことです。そしてその根拠を求めるなら、「これから起きること」と「すでに起きたこと」ががっしり手を握り合うことではないでしょうか。
 ところで、降誕物語の4人の高齢者たちは旧約聖書の世界を代表し、マリアは新約聖書の先駆け的存在となっていました。物語はこの〝新旧〟が親しく笑みを交わしながら進行してゆきます。そして、それがそのまま聖書のクリスマスだったのでした。
 イエスの言葉にも「神は天地創造の初めから(マルコ福音書10章6節)」というのがあるように、神の創造の目的からクリスマスを考えてみる。そのような作業もぜひお勧めしたいと思う次第です。

三原教会・福山教会牧師 白髭 義

ページトップへ

1  2  3  4  5
 
EditRegion3
| トップページルーテル教会とは全国の教会関連事業るうてる法人会諸活動・運動体ENGLISH
日本福音ルーテル教会 〒162-0842東京都新宿区市ヶ谷砂土原町1-1Tel.03-3260-8631  Japan Evangelical Lutheran Church (C) All Rights Reserved
English